スタンリー・キューブリック『シャイニング』をめぐって

ほら見てごらん、因果のはての思う壺。凍って固まるホラームービー

改めて、ホラームービーの傑作は何かを思い巡らせてみる。
その時、キューブリックの『シャイニング』のことがふと頭をよぎったのだ。
そう、まるで映画の中でなんども出てくる双子のイメージのように、
何か不思議な力に魅入られ逃げおおせないでいる。
あれから40年近い歳月が流れているが、その思いは変わらない。
無理もない。初見から評判通りの怖さに、
思わず震撼させられたのはいうまでもなく、
いわば、作者の思う壺にはまった映画でもあったからだ。

よって、ただ怖さだけに特化するならば、
自分にとっては掛け値なしで一番怖い映画、そう断言することができる。
(真のホラー好きにしてみれば、それもまた甘っちょろい
子供だましのたわ言だと断じられてしまうかもしれないのだが・・・)
あえて私見を貫かせていただこう。
イコール、誰が見ても怖いかどうかは別として、
見応えに関して、作品の出来に関しては、
文句の付け所がないことは見ればわかる。
世間の評価からしても抗う理由などない。

純粋に、一人の人間の狂気沙汰がスリリングに展開されるのだが、
この『シャイニング』におけるジャック・ニコルソン渾身の演技の前には
ただただ凍り付いてしまうだろう。
(正直に告白すると、この映画を見て、ニコルソンと言う俳優が
心底苦手になってしまったほどである。)

ただ、なにが怖いかということを、
ここでは書き進めていくべきなのが前提だとしても、
主観的に感じとった怖さをそのまま言葉にしたところで
それがうまく伝わるかどうかまではわからないのだ。
いや、むしろ陳腐なことになりはしないだろうかと考えると、
その心配の方が先にやってくる。
よって、まずは怖さを強調しただけの、
いわゆる“目撃談”だけは避けなきゃいけないと考える。

冷静に見ていけば、アメリカという国が背負う、
負の歴史に基づいた、ある種の呪詛によって
画面が凍りつく瞬間に出くわす映画でもあるわけだ。
かつて先住民族だったインディアンたちが白人によって迫害され、
血で血を争う悲惨な歴史を知る土地こそが
コロラド州のロッキー山上にあるオーバールック・ホテルなのである。
しかも、この場所にはインディアンたちの墓地があったとされる。
なるほどつかみはOKだ。

冬の豪雪によって冬季には閉鎖し
全くもって孤立化してしまう場所にあって
それゆえに、そうした怨念のようなものが、
根深く逗留してしまうのもやむえない・・・などとひとまずうなづく。
が、事はそんな単純なものではないのだ。
キューブリックは特にホラー作家ではないが、
そのあたり、こだわりの美学を盛り込んで
これみよがしに恐怖をあおってくる術に長けている。
映像や音響による喚起力は流石キューブリック、といっていいだろう。
さすがは写真雑誌『ルック』で名を成した
カメラマン上がりのことだけはある。

とにかく巨大なホテル空間自体が巨大な迷路のようになっており、
舞台としては申し分ない。
その中で、インディアンの意匠に基づく内装、
いわゆる蜂の巣デザインのカーペットであり、貯蔵食糧に至るまで
実に綿密に仕掛けが施されているのに気付くだろう。
こちら側、あちら側とする、鏡を異境の象徴として効果的に使いながら、
シンメトリーな構図の中であらわれる不気味な双子の像。
(ダイアン・アーバスのあの有名な写真にインスパイアされているのだと思う)
おまけにエレベーターからの血の洪水や惨劇そのものを
フラッシュバックで幾度となくトニーの予知として挿入しながら、
事件のあった237号室では、惨殺されたかつての管理人の妻を
霊的に、ではなく腐敗した老婆とその高声によって
たくみに妄想として差し替えたりもする。

そして、トニーが守るべくダニーの口を借りて繰り返されるREDRUMという言葉。
それこそは部屋のドアに赤く書かれたMURDERの逆さ文字であり、
今まさに起きようとする目の前の現実への予告だ。
広いラウンジでジャックがタイプライターで打ち続けた
「All work and no play makes Jack a dull boy」の夥しい繰り返し文においては
(日本でいう「よく学びよく遊べ」が近い表現というが、
そう実践できないジャックは馬鹿、つまりは狂人になる?
とでも暗示しているかのようだ。
そしていよいよ、オノをもって妻や息子を追い回すシーンのはてに
最後は雪に覆われた垣根の巨大迷路での“恐怖の鬼ごっこ”へとなだれ込む。
それらがステディカム撮影の滑らかなカメラワークと共に
ジャックの狂気をにわかに加速してゆく。

いやはや、知覚現象のあらゆる恐怖に費やす言葉に際限はない。
この恐ろしい映画の主役ジャック・ニコルソンが、
最初から最後まで、ひたすら、何か恐ろしいものに突き動かされ
いわば憎しみと怨念を背負った格好で、
妻や子を地獄に道づれにせんと追い回すに至る、
その狂気の沙汰のプロセスを、十二分に見せつけられていくうちに、
映画は単に狂人譚の様相に支配されているかの錯覚に陥ってくる。
だが、『シャイニング』というのは、元は息子ダニーや
黒人料理人ハロランが宿す特殊な能力のことであり、
その出所は、ジョン・レノンによる「Instant Karma!」と言う曲の一説にある
「Well we all shine on Like the moon and the stars and the sun」
からだと原作者スティーブン・キング自身が語っている。

冒頭、アル中を抱えた元教師ジャック・トランスがホテルの面接で
それゆえ何かと問題を起こしてきたことがいろいろ示唆されてゆくが
職はそうした気質ゆえで追われた挙句、この因果をかかえた場所に
まるで自らのカルマによって導かれたかのようにやってくる、
つまり、訳ありの自称の作家なのである。
原作では、むしろホテルそのものが背負う因果に起因しており
邪悪な霊が吹きだまった巣窟として描かれている。
その息子ダニーは、自己の中にトニーという
もう一人の人格を宿している特別な少年だが、
そのトニーとの対話を通じて、未来を予知するという神聖な超能力が
原作ほどには大きく効力を発揮してはいない。
場所が醸す絶対的な邪悪さとの対比でもって、
ジャックはむしろ良き父親像としての復権を必死に取り戻そうとする原作に対し、
映画版では、終始完全にキューブリックの創作によって、その思いが削がれているのだ。
つまり、因果そのものを背負った狂人が
なにより、再びカルマの法則に抗えず、ホテルの歴史そのものとともに
輪廻転生地獄を続けてしまう、という事なのであろう。

ここでキングの思いを代弁すれば、おそらく、タルコフスキーの「ストーカー」で
ゾーンそのものが意志をもった空間として描き出されていたように、
ホテルという場所自体に、そういった力をもたせたかったのだろう。
要するに、主役は決してジャックという男ではないのだ。
悪霊や超常現象といった超自然的なものを
ベーシックに原作に盛り込んだキングと
そうした神秘主義的要素を信じず、
あたかも一つの科学のようにしてとり扱うキューブリックとでは
所詮、水と油といったところか。

こうした見解の行き違いによって、スティーブン・キング自身は
この映画を気に入ってはおらず、キューブリックを激しく攻撃している。
その意味では呪われた作品とよんでも差し支えないのかもしれない。
言い方をかえれば、この映画版は
キューブリックが原作をモティーフにしながらも
独自にイメージを書き換えてしまった作品だと言えるのだ。
原作と映画化の相違問題はここに差し置いても、
どのポイントを強調するかで、
確かに、両者の食い違いが明確に差になって現れてくる。
ダニーが超能力のみならず、ハロランの能力もまた
ほとんど機能などしておらず、有効に描き出されてはいないのだ。
ハロランに至っては、真っ先にジャックの餌食になって死んでしまうのだ。
おまけに、キューブリックの執拗なこだわりから
映画には、原作を超えた強烈な映像美が支配している。
一方でキューブリック好きにはこたえられない映画ではあるが、
反面、原作のキング側の不満もわからないではない。

その分のもどかしい思いから、1997年には、
スティーヴン・キング自身がドラマ版を
製作総指揮と脚本でもって手がけ直している。
この2020年には、シャイニング』の四十年越しの続編である
『Doctor Sleep』が公開されており、
どちらも未見なので、軽々しくは言えないところだが
少なからず原作者側の溜飲を下げた格好になっている。

いずれにしても、ホラー映画の傑作として
『シャイニング』はこの先も語り継がれてゆくことは間違い無い。
こうして、今尚熱心なマニアたちによる様々な解釈が繰り広げられているわけだが、
それを踏まえて、今、冷静にこの映画を再見してみると、
ジャックに負けじ劣らず、
妻のウェンディー役のシェリー・デュヴァルが怖い。実に怖いのだ。
いってしまえば、ホラー顔である。
深読みすれば、このウエンディこそがジャックの狂気を
増長させている気さえしてくるのだ。
よって、スティーヴン・キングの、キューブリックに対する最大の違和感は
夫ジャックの変化に心乱す妻像に向けられたといっていいのかもしれない。
毅然たる態度をもって臨む芯を持った妻、母親像であったはずだ。

あのドアにオノが刺さった絶体絶命のポスターシーンでは、
象徴的にその恐怖感がとめどもなくにじみ出しているが、
カットを重ね、執拗に取り直しを命ずる監督として有名な
このキューブリックの演出が、少なからず影響していると言うのが
もっぱらの評判ではある。
彼女が実生活においても精神疾患を発病していることからも
まさに、あの役が適役だったのだろうが、
キューブリックの映画に対する強いこだわりが
一人の俳優の人生をも狂わせてしまった、
などとは言い過ぎだろうか?

逆に、超能力をもった少年ダニー役のダニー・ロイドなどは
この一作を最後に、綺麗さっぱりと華やかなこの世界引退している。
キューブリックと言う才能に魅せられ、
役者としてのキャリアまで投げ打って
キューブリックの個人的なアシスタントにまでなったイギリス人俳優
レオン・ヴィタリによるドキュメンタリー映画
『キューブリックに魅せられた男』では、
その辺りの体験を幸福な記憶として告白しているところを見ても
ある意味、堅実な選択だったのかもしれない、というところをみせてくれるのだ。
ホラー映画といえど、映画は所詮映画であり、
様々な人生模様の上に強行という現実の元に成り立っているわけだが、
ホラーという強度の前には、必要以上に物語が一人歩きするものだ。

いやはや、映画は恐ろしい。
何よりもキューブリックは恐ろしい監督だが、
それに違和感を唱えたスティーブン・キングもまた恐ろしい作家である。
こうした個性のぶつかりあいが、この傑作を産んだ土壌にあるのだと改めて思うのが
『シャイニング』の魅力そのものでもあるのだ。

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