ピエール・クレマンティスタイル『ベルトルッチの分身』の場合

ベルトルッチの分身 1968 ベルナルド・ベルトルッチ
ベルトルッチの分身 1968 ベルナルド・ベルトルッチ

分裂するは我にあり。アウトかセーフか、その危険なダブルプレイ。

世の中に、自分に似ている人が少なくとも3人はいる、
なんてことが、昔からよく言われることだが、
本当だろうか?
外見上、似ている似ていない程度の話だと言うなら
他愛もないことだ。
人は皆、自分にないものを求めつつも、
どこかで、その類似性によって生じる親近感の中に
安心を求めるものだ。
性格における相似でさえ、
たとえ錯覚だとしても、そうやたらに遭遇することはない。
まして、外見はそっくり同じでも、中身が正反対なまでに違うってのは
いったいどう言うんだろうか?
そもそも、人間は、自分の中に
大なり小なり複数の人格を宿しているもの、と言う前提に立てば、
すでに自分の中に、他者を抱え込んで生きている、
生まれながらの多重人格者だと言えるのだが・・・

そこで、ドッペンケルガー氏にご登場いただこう。
自分で客観的に自分自身を目撃してしまうと言う、
これは「自己像幻視」とも言う超常現象のことである。
(第三者によって目撃されることもあるという)
それは自分でありながら、自分ではない。
なんとも計り知れぬ現象だ。
見たものは死ぬ、などと言う都市伝説が跋扈するぐらいだ。
二重人格ともちょっとニュアンスが違うが、
いずれにせよ、このような題材をめぐる小説や映画が
古今東西、枚挙にいとまがなく
人の関心をさらうには十分すぎるほど、
興味深いテーマであることに異論はない。

本邦初公開、ベルトリッチ『べルトルッチの分身』とは
まさにこのドッペンケルガーをテーマとしており、
原題が『PARTNER(ダブルを意味する)』と言うことからすれば、
本人との間で、非常に奇妙な共存関係を展開し、
寄り添うもう一人の自分との関係性をどうしても重ねてみてしまう。
それ自体は、ある種幻想、妄想にすぎないとはいえ、
実に大胆なテーマが扱われている。
ここでは、信奉してきたゴダールを明確に意識した上で、
若きベルトルッチ流のヌーヴェル・ヴァーグへ挑戦、
ともいうべき映画的アプローチが
随所に散りばめられた作品だということは、はっきりしている。

まずは様々な引用が目をひく。
冒頭で、カフェで書物に忍ばせたピストルを見つめる主人公は
そのシルエットに、不気味なまでな気配を漂わせているのをみても、
まるでムルナウ版の『ジキル博士とハイド氏』そのものだ。
階段から乳母車を転げ落とすシーンなどは、
あのエイゼンシテイン『戦艦ポチョムキン』
「オデッサの階段」 へのオマージュだとひと目でわかる。
また、洗剤売りの女性を自室の洗濯機前で
泡まみれで戯れた挙句死に至らしめるシーンや
書物という名の独房に閉じこもる自閉性などは
あたかもゴダール的遊戯そのものに見えてくる。
ベルトルッチ自体は、本作を
不完全で消化不良君の作品程度にしかみなしていなかったフシがあるが、
これを若気の至り、と言うべきなのか、
あるいは若さゆえの野心作というべきか。
そこはみるものの感性に委ねられるところだ。

好き放題、やりたい放題、とかく実験精神に溢れた
この『べルトルッチの分身』は、
『殺し』『革命前夜』で映画界に颯爽と新風を吹き込み
『暗殺の森』や「『ラスト・タンゴ・イン・パリ』といった
真の傑作で、気鋭の映画作家として堂々狼煙をあげた
そのステップの一歩に他ならないとしても、
ベルトルッチ版ヌーヴェル・ヴァーグ作品として見れば
いみじくも「革命」やら「ファシズム」を標榜してきた作家として、
これこそは十分な過激思想と視覚的要素に満ちた、
今尚、興味深い重要な作品の一本に位置づけられてもいい。

あのドストエフスキー原作の『二重人格』の映像化であるが、
ドストエフスキーという作家自体が、日本人における漱石のように、
西洋人にとっては根源的な問題を抱えている作家であることは
それはベルトルッチのみならず
ゴダールが、パゾリーニが、たびたび通ってきた道程だ。
その主題が多くの作家に共有されていることもからも
今改めていうことでもないだろう。
ドストエフスキー、および原作はひとまずおくとして、
若きベルトルッチの冒険に足を踏み入れてみるとしよう。

古くはジキルとハイドの世界のように、
人はなぜ、このような多重人格と言うものに興味を示すのか、
それは誰もが、内なる魂に
複数の自己を抱えているからなのか、
それとも、自分自身を自分だと確証することに
大いなる不信があるからなのか?
この複雑な人格を抱えた主人公ジャコべを演じるのが、
ピエール・クレマンティである。
まさに妖しいまでの惡の華を匂わせる。

思い返せば、『暗殺の森』では、主人公の少年時代に、
撃ち殺したと言う思い込みでトラウマを与えることになる、
元牧師で男色家リーノを、
ブニュエルの『昼顔』では、金歯の変態男マルセルといった、
その強烈な役どころが頭から離れない人物を怪演している。
兎にも角にも一癖ある俳優である。
確かに美青年ながらも、青々としたヒゲの痩けた頬、
眼光鋭く実に怪しげな男が、ここでは自らの分身に怯えながら
ままならぬ人生にあらがおうと、大胆な殺人や行動を繰り返す。
かくも複雑な人格のもとに揺れている人物なのだ。
その分身とともに、まさに自己を超越できるのか?
まるで細胞を分裂させ、増殖を繰り返し生き延びうる生物のように、
幻想に身を置くものの不条理さ、不気味さを露呈してゆく。
そんな統合失調気味のキャラクタージャコべを、
このクレマンティの演技に託して
あたかもヌーヴェル・ヴァーグにとっての
アントワーヌ・ドワネルのごとき存在として、
投影して、葬り去ろうとでも言うのか?

いや、葬るというよりは、寄り添うといった方が正しい。
壁に大きく映し出された自分の影は内面の露見か。
そいつに蹴られ、もう一人の自分が現れる。
そこから奇妙な共存関係が始まるのだが
もともと弱気で小心者であるジャコベは
もう一人のジャコべにおされながらも、
その分身とともに大胆であり狂気じみた自己をさらけだしてゆく。
小心と大胆さが入り混じった青年像は、
現実と幻想の入り交ざった世界の住人として、
文字通り自己を演じ続けるのだ。
それらは、全て狂気と理性と置き換えてもいいだろう。

ジャコベは演劇アカデミーで演劇を教えている。
そもそもがピストル、火炎瓶、ギロチン、ガスマスク・・・
小道具からしてなんとも演劇チックな男だ。
おまけに、部屋の壁に貼っている写真は
「前衛演劇」の開祖たるあのアントナン・アルトーではないか。
アルトー自身、詩人でもあったが
演劇革命をもたらした、重要な演劇人でありその影響力は計り知れない。
だが、同時に精神そのものにまで破綻をきたした人間であり、
いわば真の「20世紀の精神異常者」でもあったことは知っておくべきだ。
よって、ジャコベが抱える演劇論は
このアルトーが提唱した「残酷演劇」なるものに
大いに負っているのは間違いなく、
そんなものと理想が一筋縄で折り合いがつくとは思えない。
が、この「残酷演劇」なるものがなんのか・・・
アルトー自身、バリ島のバロン・ダンスに触発され
この演劇思想に行き着いたとされるが、
果たして、その定義が難しい。

血を流し、暴力的なものゆえの残酷性のことを意味するわけではない。
むしろ、言葉の論理性や知性や理性表現を超えるものであり、
観客と舞台、演劇と生の分離を許さず、
身体表現における真の自由と生そのものに潜む、
見えざるもの、隠されたものとを重ね合わせる行為でもあるのだと。
アルトーの『演劇とその分身』のなかで語られるこの分身論こそは、
ジャコベが、日常で抱えている問題そのものであり、
それに対峙するものとして、
あえて自らの分身を出現させた
精神の危うき演劇(ドラマ)なのかもしれない。
まさに自己投影劇である。

テーマとしては難題を扱っていることは明らかだが、
なのに、容易に罠にはまってしまう事になる。
(つまり、わかったような気分になってしまう)恐ろしい映画でもある。
魔術的思考のもとに実現される摩訶不思議な不条理の連続。
ベルトルッチの言葉を重ねるなら
「総合失調症者による総合失調症者的な映画」は、最初から最後まで
まさに人格における“相互失調”ぶりが露呈されるだけだ。
がしかし、ふたりのジャコベはものごとの矛盾、
つまりは生の不合理性そのもののによって暴き出されたメタファーでも有り
ベルトルッチの生きた分身の表出なのである。
かつて、ゴダールに触発され、感化された若き映画作家の衝動を懐胎し、
同時に、精神の破綻ぶりでもって、幸か不幸か
大胆なまでにゴダール以上のラディカルさを乗り越えんとする、
真の「残酷映画」として映画革命の高みを目指した
若きベルトルッチの天才ぶりがしっかり堪能できる。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です