マルチェロ・マストロヤンニスタイル『白夜』の場合

白夜 1957 ルキーノ・ヴィスコンティ
白夜 1957 ルキーノ・ヴィスコンティ

マルチェロ流、ワルよりもこだわる男のセンチメンタリズム

ひと頃よく耳にした言葉。
“ちょいワルオヤジ”なるものについて。
ジローラモさんなんかをほぼ即答的に
思い浮かべるのがマジョリティなんだろうか?
言葉の響き自体も嫌いじゃないけど
一般の日本人のイメージからすると、
あまり似つかわしい響きではないな。
少なくとも、この日本よりかは本場イタリアあたりで
ちょいワルオヤジなるものが
普通に町中を闊歩しているイメージの方がはるかに自然だ。
その定義に、あえて不必要に字面を費やすつもりもないのだが
ただイメージというものは、時代とともに変化してゆくもの。

要するに、程よい感じの遊び人、
というのは世界中、いつの時代にもいる。
いたってかまいはしない。
むしろ、いて欲しいとさえ思う。
それにはある程度、身なりや雰囲気なども込みで
成熟した世の反映として、
ファッション文化から生まれた風土と共に成立する
ひとつの文化事情だとも思えるからだ。

とはいえ、自分はそこを意識もしないし、
間違っても目指したりもしない人間だ。
そもそもが天稟には及ばない。
想像してみるに、面白い人種だと思うが、
いったい、どうやったらちょいワルと呼ばれ、
それにあったイメージの人格になりうるのか?
映画を通して、少し研究でもしてみようか。

そんな自分がちょいワルオヤジ想像するイメージは
あのジローラモさんではないが、同じくイタリア人だ。
むしろ、マルチェロ・マストロヤンニのほうにそれを感じる。
目利きからみれば、ちょいワルを越えて
ちょっといい男としておつりのくる男かもしれない・・・
が、あくまでもスクリーンを通してみるこの本物は、
フェリーニ作品などで、
たびたび“ちょいワル風”を演じてきたのを知っているからだ。

『甘い生活』の新聞記者マルチェロ、『8 1/2』の映画監督グイド。
それぞれにアニタ・エクバーク、アヌク・エーメと言う美女を従えた
中年男の魅力を思い返せば事足りる。
もっとも、そこにはいつもどこか三枚目風で
人生そのものにくたびれた気配を漂わせてる。
そのくせ、不器用なまでにワルになりきれず、
甘くて苦いビタースイートな哀愁を引きづった悲喜劇的役柄を
演じていたのだと記憶している。

実生活でのマストロヤンニという人は
数々の女性と浮名を流し、軒並み共演者には手が早い。
やはりそこhs、本気を出したイタリアン男の底力を見せつけられたものだ。
美男美女カップル、あのカトリーヌ・ドヌーブとの間に
もうけた娘さんキアラなんて
歳を重ねるごとにお父さんそっくりになってきたものなあ。
とはいえ、その配役からも漂わせるのは
ナチュラルなイタリアン男の魅力である。
決して、嫌味にならず、それでいて愛嬌も忘れない。
ちょいワルと言うよりは、ちょうどいい感じの大人の魅力。
だからと言って、安直に
ちょい悪ぶりをあぶり出そうというつもりもない。
ちょいワルからはだいぶ隔った僕のような男からしても
実に魅力的に見える俳優、それがこのマストロヤンニに他ならず、
そのことに少し触れてみたい。

そこで、何をたとえに引っ張り出すべきか。
ここではあえてドストエフスキー原作の『白夜』を取り上げみたい。
原作ドストエフスキー、ということだが、
本作はいたって小品であり、佳作扱いだ。
ドストエフスキーには、どこか感傷的夢想家の一面がある
といわれるところだが
本作は、そんなドストエフスキーの
おとぎ話のようなロマンティシズムが色濃くにじみ出た短編である。

一方、『ベニスを死す』を始め、
『家族の肖像』『ルードヴィッヒ』・・・
貴族出身ヴィスコンティの世界観を
必ずしも好むわけでもないのだが
ここでは、ヴィスコンティには珍しく、
政治的でも社会通念も縁のない、
普通の男女間の恋が気負いなく描かれている。
チネチッタのスタジオに、
フェリーニ作品を彷彿とする巨大セットをうちたて、
全編スタジオ撮影で約六週間、
じっくり構えるヴィスコンティにしては
異例のスピード撮影で乗り切った作品である。

いっても、いい男の代表格マルチェロ・マストロヤンニが、
ここではその看板をなかなか発揮できない、
そんなジレンマを抱えた面白さがある。
その意味ではコメディととれなくもない。
それまでは「大都会のお人好しタクシーの運転手の役の類い」
ぐらいしかなかったという舞台上がりの身の、
かけだし時期のマストロヤンニを最初に見出したのがヴィスコンティである。
そこから一気に出世街道を上り詰めたのがフェリーニ作品だ。
代わりに、いい男を文字通りいい男然として、
遺憾なくその恩恵を発揮するのはジャン・マレーのほうである。
よって、見方によっては仏対伊、色男対決の決定版、
などと野暮なキャッチを思わず口にしそうだ。

ジャン・マレーといえば、ジャン・コクトーの秘蔵っ子である。
コクトーの愛人でもあったことは周知の事実である。
言うなれば、ホモセクシャルな関係だ。
その辺り、同じ傾向を持つヴィスコンティに意識がないわけはない。
が、映画においてはなんの意味もないところだが、
対女への眼差しの絶対温度が違うのだ。
ただ、このいい男っぷりの俳優二人を並べて
明らかな違いを感じるのは、
ジャン・マレーなら当然、色男は演じられても
消してちょいワル風の役などあてがえられないし、
まして、うちひしがれた気弱な失恋男など、想像するに目も当てられない。
つまりは使い勝手の悪い俳優であり、いってしまえば、
その役所にあまり面白さを見出せないのに対し、
マストロヤンニの方は、どこか茶目っ気というか
ちょいワル風の哀愁さえ漂わせるところに
女から見ても、たまらない魅力があるのではないだろうか?
ただシンプルに、ハンサムでキュート。
そこに愛すべき資質が滲む、そんな俳優である。

とりわけ、そんなヴィスコンティ版
「白夜」においてのマストロヤンニは
別にちょいワルでも色男でもない。
夢想家というか、恋というものに
ただ幻想をいだく純情な男を熱演している。
そこには、いささかも外連味もなく、
人としての魅力を最大限にスクリーンに滲ませるのである。
何よりも初々しいのだ。

舞台はペテルブルク、ではなくイタリアのとある港町。
橋の上で、女が佇み泣いている。
見知らぬ独身男マリオが通りかかって女に声を掛ける。
男はただ人恋しいだけなのである。
ナンパ、といえばチャラいが、
男としては、それが目的ではなく、
目の前に飛び込んできた女が気になったのだろう。
ナタリアは別の男を待っている。
一年越しの約束がある。
が、いっこうにこない。
男はそんな女に同情しつつ、始まった恋の火は燃え盛るばかり。
女も最初こそ警戒するが、
一向に現れない男の存在をあきらめはしないものの、
なにかとかまってくる身近な男の優しさに徐々に心を許し始める。
そこからが面白い。

マリオはただこの女が好きなだけだが、
といって、ライバルであるナタリアの恋人を
別段憎むでも蹴落とそうというガツガツした男でもない。
むしろ、お人好しである。
心配し、世話を焼き、友情さえ厭わない。
ただ、頼まれた手紙を渡さないだけである。
むしろ、煮え切らないと映るのはナタリアの方だが、
かといって、このマリオと恋人を天秤にかけ
男をたぶらかすといった小悪魔でもない。
ただ純粋なマリオにはそれゆえに諦めきれない。
ようするに、どちらも愛の幻想に生きているのである。
まさに交わりそうで交わらない純愛だ。

しかし、同時に、それこそがふたりの間に
障害としてのしかかるのが、この純愛という名の悪魔だ。
恋人が一年越しに、戻ってくると言う口約束だけで、
そんな夢みたいなことが起きるものか?
マリオの本心はそこにあるが、自分だって夢を信じている。
そんな訳ありの女が自分の胸に飛び込んで来ることを夢想している男だ。
ナタリアはいくら、相手が悪い男ではないと理解しつつも
恋人は自分を絶対に裏切らないという思い、信念がある。
そうした微妙な男女の心理がゆれうごいている。
このロマンが安っぽく、軽重さから守られているのは
ひとえにヴィスコンティの品である。

その意味で、ヒロイン、マリア・シェルは
このナタリアという配役にぴったりなまでに実に魅力的だ。
しかし、相手のマリオにそれ以上の魅力がなければ
単なる軽佻なかませ犬におわってしまう。
大人のおとぎの恋愛事情にもっとも似つかわしくないが、
そうならない魔法がかけられているのである。
そう強く確信するのがラストシーンである。
降り積もる雪をかみしめながら、
失恋の痛みに耐えるマリオの寂寥感。
マリオは人生を呪いはしない。
そしてやるせなさが胸にせまるシーンである。
それこは原作にある白夜に対抗する雪のロマンティシズムである。
美しく汚れなき思いがそこにこめられているかのように舞う雪。
そして二人の再会を見届けて踏みしめる雪。
そこに、野良犬がどこからともなくやってきて、マリオにつきまとう。
あたかも天使のようだ。
ねえ、お兄さん、あなたって
ホントはちょいワルなんかじゃないですよね?
ほんもののいい男ですよね?
ぼくにはわかりますから、わかりますとも。
そんな代名詞、ジローラモさんの専売特許でいいじゃないですか。
きっと神様は見ていますから・・・

かくして、マルチェロは『白夜』での切なさを踏み台に
以後、映画史に燦然とエレガントで良質の祝祭劇を
捧げつづけた名優となってゆくのである。
いみじくもフェリーニの『8 1/2』で、
監督の分身たるグイドに言わせた言葉
「人生は祭りだ。共に生きよう」はフェリーニの言葉であり
同時に、マルチェロ、君自身が言いたかったことなんだよね。

映画には映画の、文学には文学のロマンがある・・・。
「罪と罰」「虐げられた人々」「カラマーゾフの兄弟』といった大作を読破するのは骨が折れる。
ならば本作のような小品でもってドストエフスキー哲学の発端をかじってみようか。
いい男にもロマンは知性同様必需品なのだ。

すばらしい夜であった。それは、愛する読者諸君よ、まさにわれわれが青春の日にのみありうるような夜であった。いちめんに星をちりばめた、明るい星空は、それを振り仰ぐと思わず自分の胸にこんな疑問を投げかけずにはいられないほどだった――こんな美しい空の下に、さまざまな怒りっぽい人や、気紛れな人間が果たして住んでいられるものだろうか? これもやはり、愛する読者諸君よ、幼稚な、きわめて幼稚な疑問である。しかし私は神が諸君の胸にこうした疑問をよりしばしば喚起することを希望する!

ドストエフスキー (著), 小沼 文彦 (訳)

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