瀧口修造のこと

瀧口修造 1903−1979
瀧口修造 1903−1979

余白にかくかく云々、夢の遍歴は卵形詩人を巡る旅のごときもの

彼女の気絶は永遠の卵形をなしている。

「絶対への接吻」より

こうしてまがいなりにもブログを書いているということに
何か意味はあるのだろうか?
日々自問せずにはいられない。
けれども書くということに、意味はあるのだろう。
書くことで見えてくるものは、確かにある。
余白を余白として放置しておくことは未だ恐ろしい。
だから書く。
それがなんなのか、わからないだけだ。

かつて、なぜ書くか、
ということに執拗にこだわった詩人がいる。
瀧口修造。日本のシュルレアリストと呼ばれ
渦中の運動においては貴重で重要なる中心人物であった。
それゆえ戦前にはトンチンカンな政府に睨まれたりもした。
が、いち早く、本家アンドレ・ブルトンやマルセル・デュシャン、
ホアン・ミロ、サム・フランシス、ジョゼフ・コーネル等、
海外のアーティストたちとも積極的に交流をもち、
日本の多くの前衛アーティストたちをその慧眼で見届けてきた。
この日本の美術、芸術、あらゆる表現の媒体にとって、
じつにかけがえのない存在だったと言える。
もし瀧口氏がいなければ、我が国の美術史も
随分と変わったものになっていたかもしれない。
いや、まごう方なく不毛なものになっていたに違いない。
多くの芸術家、若いアーティストたちの精神的支柱であった。
タケミヤ画廊はそうした芸術家の卵たちの巣立ちの場になり、
実験工房は、そんな若き才能たちの巣窟であった。
そんな瀧口修造について、費やす駄文は不要だ。
手元に、まるで福音書のように抱え込んでいた一冊の本がある。
『余白に書く』である。
その余白の広がりを眺めよう。

展覧会のカタログに寄せて書き贈った短文や私信として
友人たちに贈った言葉が収録されている。
多くの才能をその千里眼で見届けてきた詩人の言葉は
肉体をもつ真の言語として、永遠の輝きをもち
今尚後人たちを見守り続けている。

私の心臓は時を刻む

ひとつのイメージについて語ることは
釣りあげた魚のことを語るようなものだ
『余白に書く』より

その瀧口氏を突き動かしていたものは何なのか?
ひとつは直感の名のもとに終始完成を拒否した
その実験精神そのものである。
実験とは、結果を導くための行為である。
だが、瀧口氏は永遠に完成されることのない余白に
その魂の所在を置き続けた人だ。

「詩的実験」と称された詩作活動にその息吹が宿っている。
その活動は、いわゆる詩作や文筆に限られることはなかった。
むしろ、書くと言うその不自由さと戦いながら、
デカルコマニーやバーントドローイングといった
意識を超えたところに立ち上る詩心溢れた幻影を
生涯追い求めたアーティストでもあった。

瀧口氏が英国経由の詩人西脇順三郎から
その存在を知ることになるシュルレアリスムの運動に惹かれたのは
そうした意識の範疇を超えた自動手記や
夢の領域に生産されうるイマージュたちの巣窟であったからに他ならない。
そのことは瀧口氏の生涯を通じる功績に
如実に反映されたひとつの美学だと言える。

瀧口氏がそうした個人の表現よりもこだわっていたもの、
それが夢の漂流物、オブジェたちであった。

物々控

物の遍歴。物への遍歴。

私の一生は「持たざるもの」の物憑きとして終わったとしたらどうだろう。思うだに怖ろしいようなものだ。

私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは、一種の記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。

それらは市場価値の有無にかかわらず、それには無関心な独自の価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。

『余白に書く』より

その夢をのせて「オブジェの店」を出すという夢想に胸躍らせていた。
その架空のオブジェ店の屋号と看板の文字が「ローズ・セラヴィ」。
あのマルセル・デュシャンから届いたものである。
女装をしたデュシャンの肖像が写真が残されているが
あれがローズ・セラヴィ、 すなわち“薔薇我が人生”の実態である。
デュシャンが使用していたかりそめのアーティストネームが
オブジェ店の出航にと贈られたのだ。

そうして多くの詩人、文学者、アーティストたちによる思いをまとめると、
“物静かで、少女のはにかみを持った卵形の詩人、純粋直観の人”への贈り物。
物の遍歴が産んだ魂の交感記録がそこにある。
瀧口氏の創造の結晶物が宿った素敵な遍歴ではないか。

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