パトリック・ブシテー『つめたく冷えた月』をめぐって

つめたく冷えた月 1991 パトリック・ブシテー
つめたく冷えた月 1991 パトリック・ブシテー

冴えぬ男たちの群像の夢見る死姦ラプソディ

ネクロフィリア=屍姦という聞きなれない響きに、
ニヤリとする人間がそう多くいるとは思えない。
何しろマイノリティ、いわゆる禁断の世界である。
人肌の温もりよりも、冷たく硬化した死体を選ぶのだから
そんな世界を好むものがいるとして、
ぜひ、その思いのほどを聞いてみたい気もする。
が、個人的には理解の範疇を超えている訳で、
実際にそのリアルを知るには、それ相応の感性が必要なのだろう・・・

そこでだ、マガモは真顔で屍姦する。
と、なんともふざけた物言いで恐縮だが、
マガモのみならず、生物界においては
屍体性愛に走る輩がある一定存在し
決して珍しいことではないという、面白い説を引っ張り出してみよう。
先のマガモ、カラスといった鳥類のみならず
トカゲ、カエルといった爬虫類
あるいは一部のイルカなど、哺乳類に至るまで
その手の観察の報告からも、まじめな研究対象にもなっているぐらいだ。
オランダで報告されたマガモの屍姦癖例では
同時に同性愛性交の側面も含まれており、
なお一層興味はそそられる。
そうなると、屍姦が単に人間だけの悪癖でもなく
かくなる倒錯性を前にしたとて
頭ごなしに差別や嫌悪のまなざしを向けるのも
ちょっとばかし偏狭だと、思わないでもない。
むろん、犯罪がからまない、秘めやかな趣向だとしての話だが。

そんな日陰の中の世界を声高に叫びたいわけでもないが、
際どく生々しい描写が出てくる映画のことをふと懐かしく思い出した。
原作があのブコウスキー、メガフォンを撮ったのはパトリック・ブシテー。
れっきしとたフランス映画なのに
どこにもそうしたムード、面影のない映画 『つめたく冷えた月』についてである。
リュック・ベッソンプロデュースもので、
なにげに期待して臨んだ支持層たる鑑賞者が
この退廃的というか倒錯的叙情を前に踵を返して
生理的に受け入れらないという思いが、
怒りのごとくふつふつとこみ上げたとしても
別段不思議ではなかろう。
自分はむしろ、それゆえにこの映画に興味をそそられたものである。
そんな思いを思い切って告白するだけで
どこか後ろめたく、危険な思いにさらされてしまう気がしているが、
結論から言って、実に面白かったのである。

かくなる問題作を目撃したのは
若かりし頃、フランスのトゥールという古都に滞在していた折のこと、
ふとなにかに誘われるように偶然目に留まった映画館で
全く何の先入観もなく、良質の人間ドラマを求めて
この作品と向き合った次第である。
かれこれ30年近くも前のことだ。
しかし、その期待はものの見事に裏切られることになる。

海岸付近の砂ぼこりの舞うようなところで
『レット・イット・ビー』を口ずさむひとりの男が
犬に向かって「名前はなんだ?」
などと話し掛けるモノクロームの冒頭は不穏な始まりで
なにやら不気味だったが
反面、どこか不思議な美しさに満ちていたのだと記憶している。
何とも品相のない笑みを浮かべている男デデが
この映画の監督パトリック・プシテーその人であるのを知ったのは、
その帰り道、壁に貼ったポスターで
もう一度キャストをじっくり確認したときだった。
この男の未知の実態を引きずったままで、この映画を観終え、
正直にいうとストーリーの下劣さと、
主人公であるこの無粋な中年男に言葉を失ってさえいた。
だが、この不思議な映像の喚起力と
言い知れぬ低俗さ、
そのなんともいえぬ負の重力に
いつの間にやら押し切られてしまっていたのである。

アメリカ的なエッセンスの匂いを振りまきながらも、
それでいてどうしてもアメリカの風土には染まらないであろう
空気の不穏さが立ち込め
この奇妙な映画全編に横たわっていたあの感覚を思い出す。
字幕のない、完全な生のフランス語のセリフを追い切れなくとも、
終始そのモノクロームの映像美、テーマの猥雑さ、
あるいは滑稽じみた中年男たちの狂乱ぶりに魅入られてしまったのである。

その後、この映画のことを心の片隅に放置しておきながらも、
日本での公開の動向をひっそりと伺っていたものだ。
一体、この映画は大衆に向けどんな待遇を受け、
果たして支持されるのだろうか?
とひそかに楽しみにしていたのである。

こうして日本で再び、この映画に再会することになる。
その折にはブコウスキーの文学にも手を伸ばし
その世界観には十分親しみを覚えていたから
より親近感が増したのはいうまでもなかった。
ブコウスキーが生みだすハチャメチャな空気感を
なんとかして映画に移し変えようとしていた結果の産物が
あの猥雑さを彩っていたものの実態だったのである。

その後資料を目にするにつれ
ブコワスキーが欧州ですこぶる高く評価を受けていることも知った。
この映画はブコウスキーの『ベニスの交尾する人魚』と
『バッテリーの故障』という短編を下敷に
プシテーが惚れ込み、自らが脚本を書き直したもので、
つまり彼は見事三役を演じたことになる。
酒と女と怠惰な放蕩、そして死姦。
時に、倒錯的なまでの側面には不思議にも透明性が宿り
崇高なまでに心高ぶらせるところがあるものだ。

フランス映画シーンの、名脇役と言っていい
ジャン=フランソワ・ステナブン扮する親友であるシモンが
スペイン女に尻を掘られるところの海岸での絶叫、
あるいは死体を担いで入水する海辺のざわめき、
果たしてあの神聖でアノニマスな海の存在が、
この汚れた男たちにとって憩いの舞台を提供しているとでもいうのだろうか?
全編を通してひたすら展開される不埒な中年コンビ
デデとシモンによるブラック・ジョークには、
われわれが日頃毒されているジョークとは、
根本的に一線を引いた本質的な意味での日常性が潜んでいる。
人生の苦みと諦めを乗り越えるための強度の楽観性。
当時若かった自分にはどうにも見えなかった部分であり
許容しかねるほどに、今思えば若気の真面目さに弄ばれていたのだろう。
ところが歳をかさねてくると
不思議に、そうした楽観性をも歓迎し、
清濁併せ吞むような思いで、
時には下劣に思えるような事態にさえ
微笑みを禁じ得ないような、そんな心境に至ることもあるのだ。

かくして、ブコウスキー文学の不思議な清々しさ、
胸のすくような猥雑なざわめきが、
この『つめたく冷えた月』にも程よく溶け出しており、
どこか憎みきれない二人の中年男の哀愁の
サイテーながらも、サイコーの幻影とともに酔いしれ
そんな弛緩した瞬間に、ふと心地よさを覚えたりするのを
自覚するのである。

パトリック・プシテーという人は、
本作以外にメガフォンをとってはおらず、
あとは俳優業に戻って細々と活動を継続しているようだが、
不思議なセンスの片鱗に魅せられしものとしては
この『つめたく冷えた月』以外で、
再び、その作家の資質を見極めたい思いがどこかであるのだ。

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