進藤英太郎スタイル『山椒大夫』の場合

山椒大夫 1951 大映 溝口健二

名バイプレーヤー、悪の威厳はピリリと辛い

わざわざ生き地獄という言葉があるぐらいだから
顔を覆ってしまうほどの地獄絵図なんてものが
いまも世界の何処かで人知れず繰り広げられているのだろうか。
想像するだけでおぞましい気持ちになってくる。

ましてや歴史をたどれば数えきれないほど
悲惨、凄惨な事態が繰り返し記録されている。
過去は変えられないが、未来は変えられる。
そう、戦争をなくそう。
平和を呼びかけよう。
独裁者を討ち砕こう。
隣人に愛を、そう、愛を振る舞おう!
それはそれで真理だが、今、そんなことをいいたいわけじゃない。
そんなことを気休めにいったところで、
世の中が青空のように隅から隅まで
からり晴れ渡るわけでもない。

地獄絵図というものを体験したことは、幸いまだないが
むかしから嫌というほど聞かされている。
針の山、釜茹で、糞尿の池・・・
どれもが観念の世界のように思えるが
確かにわかりやすいイメージだ。

映画における地獄絵図といえば、
石井輝男のその名も「地獄」を思い出す。
オウム事件に触発されて監督自体が社会に代わって
悪を裁くというなんとも痛快というか
シュールというか、馬鹿馬鹿しいというか、
ま、改めてダンテなんかの『神曲』を引っ張り出すまでもないだろう。
その意味で実際の地獄や天国があるかどうかは別として
やはり、この世にはそのミニチュアの地獄も天国も存在し
あくまで、人間以上に恐ろしい存在はないという
個人的な思いは変わらない。

地獄のことはさておいて、
地獄絵図の縮図という意味では
溝口健二『山椒大夫』をあげておきたい。
何しろ、人さらい、人身売買、そして生身の人間を
容赦無く奴隷として扱う当時の寓話なのだから
そんな生易しいものではなかろう。
ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠たちがこぞって熱狂したあのラストシーン。
盲目の母と厨子王が抱擁するクライマックスを
上方から捉えるロングショット。
その後カメラがパンして佐渡の海の景色を映し出すあのシーンだ。
ゴダールが「気狂いピエロ」のラストで
いみじくも引用した感動的なこのラスト。
ちなみに、『山椒大夫』でのその一連の映像が
ワンシーンワンカットで続くと認識されているのだが、
撮影監督宮川一夫によれば、
セットとロケの合成なのだという。
そんなことは素人にはみじんもわからないテクニックが
駆使されているのだ。

しかし、テーマはただただ重い。
溝口の人間の描き方が
どこまでこの地獄的熱量に匹敵するのかはわからないが
スカッと感動するようなものではなく、
ひたすら圧倒され、グイグイと一家の運命とともに引っ張られていく。
こみ上げる感情はただ無常感だ。

遠い昔の民話、口承もののような噺を映画化する、
まして、森鴎外の原作あっての映画化だから、
それなりにアウトラインは見えていたはずだ。
平凡な監督なら、勧善懲悪ものとして、
山椒大夫を悪の権化、安寿と厨子王を
悲劇のヒーロー、ヒロインに設定すればいい。
しかし、そんな単純な図式だけで、感動が生まれるわけじゃない。
この映画はそれぞれ人間が背負う業のようなものが描かれる。
途中の工程を端折れば、それこそ、
離れ離れになった親子が佐渡で再会するものの
無常の前にただ佇むしかないのである。
唯一の光は尊厳でしかない。
全ては父が残した観音様のお導きだと。

母親玉木は人さらいの結末として、遠い島佐渡にまで連れてこられ
身を売るだけの哀れな生き姿を晒す。
足の筋を切られ視力を奪われても、ひたすら戻る事なき時間に向けて
「我が子恋しや」と歌いながら家族を思って嘆きに伏す。

息子厨子王は人身売買の果てに、
妹安寿共々荘園にて奴婢として連れてこられ
日々その暴君に支えながらその心まで蝕まれてゆくが
厨子王だけが這々の体で暴君の手を逃れ、
挙句には国を預かる身分にまで上り詰めるという、
常識的にはあり得ないような展開の末に
ようやく母を求めてたどり着くストーリー。

この両者のベクトルの交差が
何にも増して感動的かと言われると、それはちょっと違うのだ。
感動的なのは、そうした見るも涙、語るも涙の物語ではなく
とてつもなく重い運命そのものを
必死に生き伸びるものたちの宿命の強度である。
だから、安寿は入水し厨子王は暴君を討ち立て、
ボロボロになった母を抱きしめるあのシーンが活きてくる。

中でも、山椒大夫という存在は
まさにこの世の地獄を司る絶対の悪そのものでなくてはならない。
女、子供から老人、病人に至るまで
無慈悲なまでの振る舞いによって、
ひたすら己の欲望に為す、この悪の象徴が
ひたすら恐ろしく、無慈悲に満ちたものでなければなならない。
でなければ映画、あるいはこの寓話自体
随分去勢された甘い悲哀物語でしかなくなるのだから。

そんな無慈悲なる鬼のような山椒大夫を演じたのが進藤英太郎である。
溝口組に不可欠なこの悪役こそが、
この物語の重さを崇高なものに押し上げるための
リアルな悪として絶対のもとに君臨している。

それにしても、演技や演出にそれこそ鬼のように厳しい、
あるいは冷徹な監督として知られる溝口が、
(現場ではいちいち文句をつけることから「ゴテ健」とよばれていたとか)
安心して役を託すのだから進藤英太郎が
いかに溝口作品にとって不可欠で貴重な存在かがわかる。
まして、女を描く作家である溝口にとっては
二流三流の男優が彩りを支えられる訳も無いのだ。

画面における迫力、人間味。
悪というか、邪気というか
人間としての業の奥行きをこれほどまでに
凄みを持って滲ませる俳優進藤英太郎は素晴らしい。
山椒大夫はちょっと誇張の域を出ないが
守銭奴、あるいは吝嗇な人間、
はたまた助平爺や物分かりの悪い頑固おやじなど
完全なる悪、ではない小市民的な悪の権現として
この人ほど似つかわしい役者を知らない。
『浪華悲歌』『祇園の姉妹』をはじめとして、
『近松物語』の大経師伊春、そして溝口の遺作『赤線地帯』娼家主まで、
それは名匠溝口作品で証明されている。

新藤兼人による『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』で
インタビューに応えるこの名バイプレーヤーが
あまりに普通すぎてあっけに取られてしまった。
まるでどこかで会社の一つや二つ経営している実業家のような風体だったので
そのギャップに打ちのめされたものだった。

仮に地獄というものをテーマに映画を撮るなら
真っ先に“閻魔大王”をこの俳優にやっていただきたい。
そして壮大な地獄絵図を展開していただきたい。
もっとも、それはやはり監督が溝口であってほしいのだが
よしんば企画を持ち込んでも
溝口本人、そんなテーマをよしとしなかっただろうが。

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