中島らも『お父さんのバックドロップ』をめぐって

お父さんのバックドロップ 2003
お父さんのバックドロップ 2003 李闘士男

〝らも〟しれない世界に紛れて

未来へ向かうより、過去に戻りたいと嘆く子供達。
気持ちはわかる。
わかるけれども、なんだか悲しい思いがするのは僕だけではないはずだ。
僕だって、ときどき、過去をおもって感慨がこみ上げることはある。
昭和なんて、随分と遠い日の花火みたいなもので
いくら懐かしんでもどんどん手が届かなくなってきつつあるが、
それでも、記憶をたぐればそれなりに、
その場しのぎではあるが、素敵な時間は芋づる式にでてくるのだ。

きっと根っからの昭和大好き人間なんだろうな・・・
それはそれで否定しない。
が、同時に未来をも夢見て生きている。
なにより、現実を現実として時空を自由に行き来して楽むことができる。
その意味では、過去も未来も関係はない。
格好いいことばでいうと、ステップアクロスザボーダー、
国境なき意思男、というわけだ。

別に過去を引きずってはいないが、
あの時代、あのフィーリングに忘れがたいもの
かけがえのない思いがあるのは間違いない。
例えば、今はなき中島らものことなんかが
事あるごとにふと懐かしく頭をよぎってくる。
昭和に生き、平成すら生き延びれなかったらもさんだけど
ぼくはあの感じがたまらなく好きだった。

まだ、大阪にいたころ、
そのらもが構成作家をやっていた「どんぶり5656」というTV番組があって
たしかに、マイナーではあったが、まだテレビに可能性があった頃の番組で、
お気に入りのひとつだった。
笑いにひねりが効いていて、実に乙だった。
竹中直人にしても、脂が乗っていて、実に面白い時期だったと思う。
そんならもの名作に『お父さんのバックドロップ」という小説がある。
たとえ、ダメ親父でも、
その背を見れば子供には真の愛情というものがわかる・・・
そんな親子ドラマが全部で4話収録されていて、
すぐに読めるので、ちょっと読み返してみた。

実際こういう家庭に育っていれば、
いまごろぼくは、どうなっていただろうか? 
きっと地道にフツーに、背広族の一員、
もしくは、仕事一途の職人さんにでもなっていたかも、
なんてことを想像するのだが、そんなことはこの際どうでもいい。

で、小説とはちょっと違うけれど
監督が李闘士男という人で
脚本には『焼肉ドラゴン』でメガフォンをとった鄭義信で、
この小説が映画化されていて、
実をいうと、映画には全然期待していなかったのだけれど
これがなかなか面白かった。
それでもって、この映画には個人的にちょっとした思い入れがある。

お見受けするところ、懐かしい顔を発見した。
昔、大阪のとあるカフェで
一緒に働いたことがある人が出演していたからだ。
こちらは優しくしてもらったことを忘れちゃいない。
ここでは脇役とはいうものの、イメージそのものは全く変っていない。
そのむかし、確かその店では“オニパン”などと呼ばれていたこの俳優
この映画のなかで“コング桑田”とやらになっている。
その過程はまったく知る由もなく、
でも、記憶のヒダにはオニパンさんとして
今もはっきり残っているのだ。
で、このコングさんの美声がしっかり記憶に合致するので間違いなかろう。

それはそれはいい声の人だった。
ブルーズの歌い手でもあり、
彼の歌には心底ヒトに感動をもたらす、
艶と優しさを兼ね備えており、クリスチャンだったからか
人柄も最高に出来た人だったのを覚えている。
とても懐かしい思いで、思わずほっこりした。
まだ、どこかでマイクを握っているのだろうか?
そしてボクのことを覚えていてくれるだろうか?
最近では、NHKの体操のおにいさんをやっているのだという。
いっても、還暦を超え、おにいさんどころではないはずだが・・・

さて、個人的な感傷はさておき、本編に戻ろう。
『お父さんのバックドロップ』での一コマより。

お父さんは、その本当の勝ち負けの世界に、ずっといるのがこわかったんだ。だから、緑色の霧をふいていれば、どっちが強いかよくわからない世界へにげたんだ。だから、尊敬できない。

「お父さんのバックドロップ」本編より

こうして、なにもやりたくてやっているわけじゃない
切ない悪役レスラー下田牛之介を父にもつ息子カズオは、
こっそり、亡くなった母親が写っているビデオを見て涙を流す。
母親の死に目より、仕事を優先したと父を恨んでいる。
それゆえ、父親の職業プロレスも大嫌いなのだ。
子供だから、親父のほんとうのところをまだ理解できないのだが、
牛之介が「熊殺し」と異名をとる
ロベルト・カーマンなる最強の空手家に挑戦して、
戦前の予想を覆し、まさかの勇姿をみて・・・
という筋はある意味単純なんだけれど、
実はこういうの、嫌いじゃないんだよなあ。
いかにも昭和的すぎるんだけれど、そこがいい。

こういう親子ドラマというのが、実は好きだったりする。
お祖父ちゃん役のチャンバラトリオ、南方英二もいい味を出している。
昭和であれば、こういうドラマがいくつもあったし
それをテレビを通じてふんだんに見て育ってきたのである。
最近じゃなかなかみられなくなっているというのもあるが、
これはこれで、しっかり笑いとペーソスが噛み合った情的ドラマである。
はっきりいってB級もB級ではあるが、そこは単なるB級には終わらない、
らも節というものが、随所に流れているのだ。

こうしてみると、自分が勝手に同類に分類している、
中島らも>町田康>野坂昭如という系譜を
いやが応にも意識しなきゃいけなくなってくる。
これはもはや作家の優劣ではなく、趣向の流れに過ぎない。
これらの作家に共通する笑いとは、ある種の照れ隠しなのである。
中島らもの残した作品はさほど多くはないけれど
ぼくはこうした作品の哀愁とともに昭和を生きのび
平成を駆け抜け、今令和へとたどり着いた。
そんな思いに支えられていることを実感するのだが、
そのことを素直にありがたく思えるのは
今日の、どこか空々しく、味気ない世のなかに身も心も晒されていると
ささやながら一陣の風のような、そんなちょっち露骨にでも
そんな情的風情になびきたい気分に襲われるからかもしれない。
昭和という時代は、そんな世界が日常だったのだ。

そういえば、もうすぐ父の日が来る。
といっても、なにかしてあげようにも父親はこの世にいない。
そんな父は大のプロレス、格闘技が大好きだった。
ぼくらがいくらドラマなんかの他の番組をみたがっても、
チャンネルを独占して、ひとりプロレスショーに釘付けになっていたっけな。
昭和ならではの風景だったが、それはそれで懐かしくもある。

TOMBSTONE BLUES:中島らも & Mother’s Boys

かっこいいとかわるいとか、そんなことはこの際どうでもいい。
こういう歌というのは、その本質を支持するかしないか、ただそれだけの話である。要するに受け取る人間側の問題にすぎないのだ。
額面通りの差別だの、蔑視だの、という言葉狩りばかりが世の正義ではないのである。しかし、世の中はそれを許さない。みんながよってたかって、偽りの正義を振りかざす、即席モラリストばかりである。この息苦しい世の中に、ひとりぐらい、中島らものような人がいてもいいと思うのである。いや、いて欲しいのである。

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