サミュエル・ベンシェトリ『アスファルト』をめぐって

サミュエル・ベンシェトリ「アスファルト」

クスクス笑いのおもてなし

主演にイザベル・ユペールの名前があっただけで
思い入れも予備知識もなく
サミュエル・ベンシェトリ監督の『アスファルト』に食指が動いた。

イザベル・ユペールといえば
ジャンヌ・モローなき、フランス映画界においては
まず筆頭に名が上がるだけの実力と経歴を兼ね備えており
大好きな女優のひとりである。
彼女の出演作につまらないものはない、という妙な思い込みさえある。
もっとも、ヴァンホーベン『ELLE』やハネケの『ピアニスト』にしても、
実に癖の強い作品をみるにつけ、
監督の意図はさておき、、ユペールにしかできない
その映画に一本ピンと筋を通す、というそんな圧倒的存在感を持った女優である。

この実力派の演技の凄みを感じさせる作品を知るものからすれば
ユペールを起用してみたいと思うのは、才能ある監督にとっては
当然のような気がするわけだ。
巨匠たちのミューズという名は伊達ではない。
そんなユペールの顔を信頼しての『アスファルト』だったが
これが殊の外、面白かった。

イザベル曰く
「彼が書いた脚本の会話がすばらしく詩的で楽しく、簡潔明瞭だった」
とのことで、ベンシェトリの実力もまた、うかがい知れるというものだ。

フランス郊外の老朽団地(アパートメント)に住む住人たちの群像劇。
オムニバス形式ではなく、それぞれ独立した3つの話で構成されているが
うまく時間軸が交差して、ひとつの作品として描かれるその空気感は
ずばり、失われた人間たちのふれあいとその「温かみ」である。

まずはエレベーターが故障で住民会議から始まる。
管理費などからの捻出、とはいかず、
住民がそれを「共闘」として負うことになったが、
自分は二階に住んでいて利用しないから、
というわがままな理由で出し惜しみをする、
自称フォトグラファー、さえない太り気味の中年男
スタンコビッチの話からはじめよう。

この男は室内サイクルトレーニング機を買い込んで
激走100km走行の果てに車いす生活になって、
こっそりとエレベーターを使う羽目になってしまう。
しかも日中はバツが悪く、住民の利用時間を克明に調べて
その間をぬって外出するのは住民が寝静まった深夜で
男の行き先はというと、病院。

で、なにをするのかといえば、施設の自販でポテトチップを買う。
そこで、夜勤の看護婦とひょんなことで知り合い
ときめいて、ついうっかり写真家だとのたまう。
家にあるカメラは旧式のポラロイド、
またはインスタントでしかもフィルムが入っていない代物。
が、つじつま合わせに、動画で場所や人物を疑似撮影。
あげくに今度はエレベーターに閉じ込められ、
這々の体で脱出して、悪い足を引きずってまでこの看護婦に会いに行く。
いわゆる、ここでどうにかこうにか、ここぞの力を振り絞っての、
なんの光もない人生にパッと花が咲くひとときを味わうのだが
かように不器用で、かように情けない有様をさらしてまでの、命がけのときめきだ。

二つ目の話は、団地の屋上にNASAの宇宙飛行士が誤って不時着して
「ここはどこ?」ってなことでパニクるが
飛行士を受け入れた最上階の住人が実にいい人で
なんだかんだ、ほっこりする話が展開される。
アルジェリアからの移民であるマダムには訳あり囚人の息子がいて一人暮らし、
そこへ息子の代わりのような飛行士が唐突に現れるのだ。
ここで数日間我が子のように実に親切にもてなす。
マダムはフランス語、飛行士は英語でお互いの言葉は通じないが
言葉を超えても情というものが通じるというような話。

そして三つ目はこれまた訳ありで母親と二人暮らしの青年、
古い言葉で言うなら「鍵っ子」だ。
母親は不在でほとんど一人暮らしのようなものだが
向かいの空き部屋に、母親ぐらいの女優ジャンヌ・メイヤーが引っ越してくる。
その女優はさして名が通ってはおらず、
いまやオーディションを受ける身だがプライドだけは高い、
そんな女をイザベル・ユペールが演じている。
一方の男子は監督の息子、ジュール・ベンシェトリが演じている。
母親がトランティニャンの娘さんのマリー・トランティニャンだから
なかなかの血筋である。

いっけんツンデレ風の中年女が
この高校生の優しさが徐々にしみてゆく様が面白い。
恩着せがましさや、妙な気遣いもなく
年齢、性別を超えたハートフルな交流が胸をうつ。
酔い潰れたジャンヌを介護したり
オーディションのためのビデオ撮影を手伝ったり。
恋には発展しないものの、年齢性別を超えた人間の絆が
さりげない演出で描き出されている。

ちなみに、タイトルの「アスファルト」だが、
道路の意味ではなく、ギリシャ語の「だれない」というの語源で
液体のような物体がつながりあって固まるというような意味らしい。
そう考えれば、映画で描き出される世界がふんわり浮き上がってくる。
それぞれに共通するのは不在感である。
家族や身寄りのない男と女、
恋人や息子や両親のいない家族、
そんな関係の希薄になった社会で
老朽化した集合住宅にはわけありで暮らしながら
最低限度、他人への関心の眼差しが消えたわけではない、という
そんなかろうじて心通う群像劇が、オフビートな感性で綴られる映画である。

この舞台である団地はピカソ団地のヴェルレーヌ棟。
パリには実際にパブロ・ピカソ団地というモダンな建造物があるが
こちらはレトロでもなく、ただ老朽化した
むかしながらの、老アパートメントで、
日本でいうところの「団地」だ。
ベンシェトリの遊び心が随所にちりばめられており、
まさに団地空間はそんな悪戯に満ちているのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です