諏訪敦彦『2/デュオ』をめぐって

『2/デュオ』1997年 諏訪敦彦
『2/デュオ』1997年 諏訪敦彦

シナリオ欠きは映画をめざす

映画であれドラマであれ、基本的に台本というものがあり、
それを元に撮影されるのが一般的な現場のあり方である。
まさにこれから家を建てようという時に
設計図がない、なんてことはありえないのだ。
よって、当然のごとく、“ホン書き”つまりは脚本家がいて、
そのホンを受け取った役者たちはまず目を通し、
それを記憶し、読み合わせをしたりして、いざ本番に臨む。
こうした流れは、ある種常識化されている。

とはいえ、そんな流れを
イレギュラーに分断してしまった先例がある。
ゴダールという人である。
だからこそ、革命的な映画人として、
今なおも熱狂的支持を受け続けている。
ここではゴダールの映画について、詳しく触れはしないが、
それすらも、いくたびかくりかえしていれば
やがてはひとつのスタイルというものに収斂されてゆく。
つまりは、慣れである。
そうした矛盾からは、所詮、表現というものが逃げられはしない。

諏訪敦彦もまた、脚本にしばられず、たよらず
現場で映画そのものをたちあげながら
そのような手探りの作品としての創造過程を刻印してゆく作家である。
とはいえ、この監督のスタイルは
必ずしも脚本の有無のみが問題視されるのではなく
俳優と監督、そして見るもの、見られるもの
あるいは語るもの、語られるものといった対立する関係を
ひとつの映画という現象の前での共犯者として混在させ、
共に映画を思考し形作ってゆくために
再構築しながら進んでゆくスタイルを、デビュー以来一貫してとってきた。
映画そのものへの懐疑を常に持ち続ける姿勢という意味では
極めてゴダールの方法論下にある作家であるともいえるが、
その文法は、必然的に絶えず新たに再構築を余儀なくされてゆくものだ。
その上で、あえてフィクションにこだわり続ける強い意志を感じさせる。

最新作『風の電話』では、デビュー以来抱えてきた
映画作りそのものへの懐疑的姿勢から、
すでに新しい希望、可能性が立ち上がってさえいるような気がした。
つまり、台本がない、即興で芝居をつくってゆくというスタイルが
映画として成立することに、いささかも矛盾を感じさせないほど
確かな映画作りの成果を垣間見せてくれる。

そんな諏訪映画が日本国内より
海外、とりわけフランスでの評価が高いのもうなづける。
少なくとも、この二十年にわたるフランスでの映画制作が
その評価を決定づけることにはなったが、
その指向性は当初よりなにも変わってはいはいない。
少しずつ、洗練され、表現として狙いが明確になった分、
ずいぶん研ぎ澄まされてきた方法論が観て取れる。
もとより、映画の大衆性や娯楽性よりも、
なぜその映画が必要なのか、
それはだれにとってどう必要なのか、ということに
常に真摯に向き合い、
演じる側の意思に根底から重きを置いてきた作家であることは
どの諏訪作品にも通底するコアな部分として見えてくる。

映画が監督のものという所有観念から離れた立場で撮ること、
現場で共に思考し、映画=日常の延長上にある擬似空間を発見してゆくことで
はじめて生まれる映画というものが、
演者たちの動的な振る舞いを伴った物語として、
いかに映画として成立しうるか、
というギリギリのラインで生み出されてきた作品には、
実にリアリティがある。
それは、あらかじめ予想された範疇を超えないような、
これまで観たどんなドラマよりも直接的に響いてくる。

だが、それは俳優ならずとも、
観るものにとっても相当な覚悟を強いられることになる。
間違っても楽しい映画、面白い映画といって
語り継がれてゆくタイプの映画などではないのだ。
むしろ、難解であり、不愉快な思いで席を立つ観客がいたとしても
それは別に不思議でもなんでもない。
その受け手そのものの姿勢が問われつつ、
映画の可能性をあらたに創造してゆく行為の代償だからなのだろう。

映画というものに潜む虚構性への挑戦。
演技のドキュメント、映画作りのドキュメントといったテーマに立ち向かい、
結局のところ、映画とは何なのか?
リアルとは何を意味するのか?
真実とは? 嘘とは?
という本質的テーマに立ち返ることになるだけである。
それは享楽的、快楽的な映画作りとは明らかに一線を引くものである。
日常性の延長に、たえず苦痛を伴いながら
刺激的な問題定義をたちあげることになるという覚悟の元に、
いたって現代的テーマを投げかける作家だといえる。

デビュー作『2/デュオ』では、荒削りながら、それが顕著に現れていた。
そうした監督としての葛藤と俳優たちの戸惑いを
ひとつの映画空間に投げ出して
観客を巻き込んで、スクリーンの現前に唐突に投げ出される作品だった。

人はその思考体系の一部になったかのような
映画制作の現場へとかり出されたかのように不安になるだろう。
果たしてこれは映画なのだろうか、
いったい何が起きているのかなどと繰り返す。
たえず、撮影の中断、映画としての成立を阻む危機に抗いながら、
そこには西島秀俊と柳愛里のケイとユウのカップルが
その情緒不安定な関係性のなかで
演じることそのものをメタフィクションとして
文字通り監督の思いとともに、共犯関係をさらしてゆく。
そうした不安な空気感を一つの男女の関係性として描きだすことで
映画そのものに対する幻想や虚構性を見事に暴き出そうとしているのだ。

途中監督自身がインタビュアー(声)として登場し、
そのことを直接俳優に問いかけはするが
あたかもドキュメンタリー的な手法を取り入れながらも
リアルな物語としての亜空間において
周到に用意された罠(フィクション)として
素のような、演技のような
非常に高度な仕掛けがなされた即興的演出によって
観客もまた戸惑いの中に投げ出され
痛みを負う映画の共犯者として覚悟を強いられるのだ。
結局のところ、この物語に終わりなどない。
よって、映画は仮の幕を下ろすしかない。

いったい、いつどこで物語を追うことをやめてしまったのか
それさえ思い出せない。
いや、物語など、最初からどこにもなかったような気がするのだ。
これははたして愛を巡る映画なのだろうか?
と問えば、それ以前の問題だと思うかもしれない。
消して交わることのない男女の感情をぶつけあうこと、
すなわちその反動は、実に痛々しいものでしかない。
カメラを前に、映画を前提だとしながらも、
俳優自身の戸惑いとして、この映画作家は
物語がたち上がる瞬間を用意しこそすれど
物語などどこにも生まれないし、
その戸惑いが最後まで晴れることなどないことを
この監督はあらかじめ知っているのだ。

諏訪敦彦はゴダールとはある意味全く別の意味で
実に恐ろしい作家であることを実感させるに十分な映画だった。
同時に、そんな意識を持つ作家が、この日本という土壌で
この先どんな展開を見せるか、気になった作家でもあった。
今まさに、そんな方法論の確かさが、
この時代とともに輝きをましている、そんな気がしているのだ。

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