増村保造『痴人の愛』をめぐって

『痴人の愛』増村保造 1967
『痴人の愛』増村保造 1967

それでもなお、ナオミは男のロマンたりうるのか?

男というものは、多かれ少なかれマザコンの気があるのだと思う。
それはいくつになっても、である。
その延長、かどうかはよくわからないが、
どうやら自分の理想の女を、あたかもアバターか何かのごとくに、
直に育て挙げてみたいだの、あるいは手なづけてしまいたいだの、
なんていう大それた欲求を秘めながら、蛹のまま永遠に脱皮できない蟲のように、
夢のなかに生きているだけの、ひ弱な生き物のような気もする。
(それが講じれば、SMの調教にまで行き着いたり、
ときには猟奇的な犯行にまでつながってしまうこともあるのだろうが)

わざわざナボコフのロリータよろしく、
ロリータコンプレックスなんぞに結びつけて、
強引に展開しようというつもりもないけれど、
男に生まれた以上、昨今の草食系などといわれても、困惑するし
それじゃあいささか物足りない気がするわけで、
じゃあ、萌え系はどう?などと言われても、容易には賛同しかねるのだ。

そんな微妙で勝手な男心について、思いを馳せてみるとしたら、
不健康でありながらも、どこか健全なことだと片付けてしまうのとは、
やはり違う気がしている。
なんとも曖昧模糊たる境地に至ってしまうのだが、
実際には、この男としての切ないロマン、
あるいは哀愁を感じさせるという意味からは少しかけ離れた、
あえて古びたナオミズムなんて言葉からも浮かびあがってくる、
その究極的なマゾヒストとしての快楽なのではないか、という思いにたどり着く。

この場合、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の事を言っているのだが、
この『痴人の愛』自体、すでに四度の映画化が試みられているから、
こうした題材が、よほどイマジネーションを掻き立てるのだろう。
映画ならずとも、どこか理想の女を追い求め、
究極には、この主人公河合讓治のように、
女を飼育調教し磨き上げるということが生きがいだ、といわれてしまえば、
ついついうなづいてしまいたくなる気持ちは僕には理解できる。
出来ることなら、十代前半の、何色にも染まっていない、
まさに手付かずの真っさらなノートのような存在がいれば、
それに越したことはない、というのが、ロリータ願望の根底にはあるんじゃないだろうか。
まさに、バルチュスの絵の中の少女や
ジャック・スタージェスの写真の中の少女を引っ張りだしてきて、ニヤニヤすると言った具合に。

さて、ここでは、谷崎の手から離れた、鬼才増村保造の手にかかった
映画『痴人の愛』について話を進めようと思う。
何しろ、女の扱いにかけての映画としては、巨匠溝口の元で助監督を勤め、
イタリア留学を経た感性で、強く生きる女の息吹を次々にスクリーンに持ち込んだ、
あの増村だから、いわゆるオメオメと官能に溺れる女でも、
ペタペタと媚態をふりかざす女でもない、
まさに地中海はエーゲ海あたりの海辺で、臆することのなくヌーディストとして、
肢体を露わにすることを厭わない女を描くことぐらい、朝飯前のことである。
だから、いつものパートナーである若尾文子では、
ちょっと勝手が違うというのは当然で、そこで、
どちらかというとコケティッシュで野生的な魅力をもつ、
安田道代を起用したセンスをここでは支持したい。

それにしても、安田道代があられもなく、
被写体となってさらしたヌードのカットが、スタイリッシュに並べられ、
あたかもグラビアの一枚を飾ってしかるべきものが、
スクリーンを占拠するモダンさで、かくも大胆に痴情の小道具として晒されると、
小説の醸し出すエロティシズムは、逆にどこか薄らいでしまって、
女のしたたかさ、男の哀れみだけを扇情的に浮かび上がってくるのである。

この安田道代演じるナオミは、小悪魔というのでもなく、
ならばファムファタルか、つまりは運命の女と呼ぶべき存在なのか。
ファッションデザイナー、ルディ・ガーンライヒのミューズだった、
ペギー・モフィットなんかを彷彿とさせるほど、至ってクールビューティだ。
だから、反対に、ワナにかけられる男には、
ある程度、オスとしての資質がポイントになってくる。
そこに上手くハマったピースがこの映画の小沢昭一である。
その名前の通り、まさに昭和的な気配の猥雑さをもち、
同時に郷愁と哀愁を巧みに滲ませながら、
メスカマキリの喰いものにされる男の哀れみを絶妙に演じてみせてくれた。

一見何の趣味も持たず、仕事しか能のない真面目男のフリをしながら、
わさわざ女の原石を買ってきて、肉体だけでは飽き足らず、
そこに知性まで植え付けようとする男の浅ましさを、
これほど軽妙に演じられる俳優は、そうざらにはいないだろう。
自分が、理想とした女に裏切られ、人生を狂わされてもなおも、
その女の生き霊に身を捧げるマゾヒズムが、
ここでは存分に描き出されていて、実に痛快である。
同性としては、少々あきれもするが、何故だか微笑ましくもあり、
同時に自分ならどうしただろうなどと、あらぬ妄想へと駆り立ててくれる。
それ故に、増村の『痴人の愛』においての小沢には、愛おしさすら覚えてしまう。

男漁りに奔放で、愛想を尽かして一旦は放り出しておきながらも、
そのナオミ恋しさから、ひとり馬遊びの真似事に興じ、
ナオミ狂いの無数のスナップに埋もれながら、
理想の女像の甘美な夢に溺れ果てる哀愁を、
ここまで来ると無条件で肯定してやりたくなってくるほどである。

それにしても、だ。
男の理想なんて、所詮くだらないものね、
と大人の女たちはいうかもしれないし、
今時の女子ならキモいといって足蹴にされるのがオチかもしれない。
そんなくだらなさを、あえて可愛いといって、持ち上げる女がいれば、
男は益々図に乗るばかりだが、夢から覚めたときの虚しさは、
いってみれば、男の射精そのものである。
長く持続する女のオルガズムとは比べようもないほどに、
虚しいものだとするならば、傀儡だと思っていたのが、実は女ではなく、
反対に男の方であったことに妙に納得できる。
そこをあえてロマンだといってしまうことで、
究極の快楽、つまりはマゾヒズムというものが成立するのかもしれない。

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