オーソン・ウェルズ『黒い罠』をめぐって

TOUCH OF EVIL 1958 ORSON WELLES
TOUCH OF EVIL 1958 ORSON WELLES

さらばハリウッド、罠にさすらう黒いオーソンティックムービーに捧ぐ

冒頭、映画史を紐解いても、これ以上ないというほどの
実に蠱惑的なロングショットで幕を開ける、
オーソン・ウエルズの『黒い罠』は、掛け値無しで傑作だと思う。
だが、単なる傑作として終わらないのがオーソン・ウエルズの
オーソン・ウエルズたる所以である。

多くの映画人に影響を与えたとされるほど、
(デ・パルマの『スネーク・アイズ』などは顕著なオマージュだろう)
何度見てもすごいオープニングの3分20秒にわたる長回しシーン。
俗に「空間の振付」などとよばれているが
ダイナマイトのタイマーのアップから始まって
まるで一本の導線に導かれてゆくような緊張感を強いられる。
途中、ご機嫌なラテンジャズに乗って、
まるでジェットコースターのように
カメラが上がったり、下がったり、
流れるように画面を移動しながら、行き交う人の波をかいくぐり、
辿りついたチャールズ・ヘストンとジャネット・リーの甘いキスシーンが
あたかも爆発のスイッチになったかのように、ようやくこの長回しが終わる。
そして仕掛けられた爆弾が爆発、車が炎上する。

その現場に、よっ、待ってました! とばかり現れるのが、
オーソン・ウエルズ扮する悪徳刑事ハンク・クインランだ。
まるでヒキガエルに魔法をかけて人間にしてしまったかのようなモンスター。
漫画というか、カトゥーンのキャラクターみたいだ。
このとき、オーソン・ウエルズはまだ四十二歳。
実年齢にはおよそ及びもしないほどの貫禄である。
すべてはこの天才のよる計算の役作りなのである。
兎にも角にも、満を持しての登場で
その肉武装そのものがこれ以上ないオーラに満ち、
狂言回したるオーソンの術中にハマる展開を
すでに予告していると言えようか。

さて、ここからが本題となるわけだが
この映画史における問題作、
はたまたカルトムービーとして、
伝説だけが一人歩きしている気がしないでもない
この『黒い罠』をいかにして語るべきか。
これが実に悩ましいのである。
ひらたくいえば、メキシコ国境付近での、
アメリカ悪徳刑事VSメキシコ麻薬捜査官の威信をかけた戦い、
ということにはなるのだが、
すかっとする話でも、スリル満点の謎解き話ともいかない。
まさに、フィルムノワール然とした気配だけが支配している。

一番の問題点は、なんといってもストーリーがいまいちよく呑み込めず
凡人にはすんなり理解できない内容であるという点にある。
やんぬるかな、これには同意するしかない。
ボクノダビッチは、本作を何度見直してもわからずじまいだといい、
そのことがウェルズを激怒させたというが、わからないではない。
こうした素因ゆえに、ハリウッドでは
芸術至上主義たるこのモンスターがすこぶる悪評高く
長らく、その存在を恐れられていており(無視されていた)、
不当にも、いわば問題児であったのだ。

そんなことも手伝って、当初は俳優での出演という触れ込みだったものを、
一方の主役であるチャールズ・ヘストンの勘違い、
というか一声が運を決する事になる。
兼ねてから一目置いていたオーソン・ウエルズが監督ならば出演する、
じゃなきゃやらない、などとごねるものだから、
まんまとこの問題児に名誉挽回のチャンスが回ってきた、という皮肉な経緯がある。
かねてからハリウッド回帰を虎視眈々目論んでいたウェルズは、
ここが勝負どころと踏んだか、
どうにかこうにか、予算や期間においては、予定内で作品を完成する・・・
と思いきや、大人しく子犬のように、従順に撮影に向かうはずもない。

ハードボイルド作家ホイット・マスターソン原作からの映画化は
アイデアこそそこから拝借しているとはいえ、
自らシナリオを書きなおしたウェルズが、原作とは何の関係もないと豪語し
悪徳刑事対麻薬捜査官との対峙をメインに、
ずばり、腐敗した警察権力と人間のモラルを描いた裏切りをテーマに据えかえた。
そんな中、当初制作会社ユニバーサル側によって、
完成から無断で13箇所の削除と4箇所の追加撮影でもって
不当にも編集されてしまったのである。
それに対し、58ページにもおよぶメモを持って断固抗議するが受け入れられず
さらに95分にまで縮小され公開にされると言った屈辱的目にあう。
理由はひとこと、オーソン・ウエルズ版が難解だったからに他ならない。

結局、そんな短縮版で一人歩きしたいわくつきの映画であるが
ウエルズの意図を元に、ウォルター・マーチの編集をへて、
今日われわれが目にする完全版としてよみがえったのである。
この幸福を噛みしめなければならない。
最初に評価したのは、ゴダールやトリュフォーをはじめとするヌーヴェル・ヴァーグの連中だ。
こうした評価や支持のバックアップが、その後、
オーソン・ウエルズがハリウッドに見切りをつけ
ヨーロッパへと軌道修正する後押しにもなる。
まさに、ヌーヴェル・ヴァーグの精神性である「作家主義」の原点が
このオーソン・ウエルズだったのである。

ラッセル・メティのよる広角レンズを多用したパンフォーカス中心のカメラワーク。
のっけから聞こえてくる痛快なラテンナンバーが印象的な、
ヘンリー・マッシーニの音楽(初の長編スコアを書いた作品でもある)。
美術セットにはアレクサンダー・ゴリツィンとロバート・クラットワージー。
なにしろ、主演のジャネット・リーの代名詞ともいうべき、
あのヒッチコックの『サイコ』のモーテルシーンを彷彿とさせる場面があるが、
このロバート・クラットワージーが担当しているのも、なにかの予言めいた縁であろう。
そして、ウエルズのためにギャラなしで出演したといわれる、
あのディートリッヒ自身が「自分の最高の演技」と称した売春酒場の女主人ターニャ役。
これはオーソン・ウエルズがディートリッヒのためにわざわざ膨らませた役である。

結局、クインランの推理が正しかったことを証明するラストシーン、
それまで、昔、この悪徳刑事と懇ろだった関係を示唆してきた女は
汚物のように掃き溜めの川に浮かぶクインランの死体にこうつぶやく。
「彼は大した男だったよ」と。
これは、事実上ハリウッドによって葬り去られた
実際のオーソン・ウエルズへ向けた言葉でもある。
「人が何と言おうとね」そういって去るのである。
なんともカッコいいシーンである。
ストーリーはやや難解だが、オーセンティックなオーソン・ウエルズの才能は
十二分に堪能できる。
そう、まさに、これが本物たちを狂喜させる“オーソンティック”なやり方なのだ。

百聞は一見に如かず、黙ってこのオープニングシーンを見てみよう。

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