デニス・ホッパー『ラストムービー』をめぐって

ラストムービー 1971 デニス・ホッパー
ラストムービー 1971 デニス・ホッパー

Dennis Missing 終わらない映画を求めて

オーソン・ウエルズに続き、その流れで語れるのはこの人しかいない。
デニス・ホッパー、ウエルズに負けじ劣らぬハリウッドの問題児である。
問題児という言い方は、あくまで、あちら側に立ったたとえだから
われわれファンとしては、異端児、と言ったほうがしっくりくるのかもしれない。
そこでまずは、あのアメリカンニューシネマの代表作で
その名を知らしめた『イージー★ライダー』を語らねばならない。
が、そちらは、ロードムービー特集、あるいは映画革命特集にでも回すとして、
ここでは、あえてそのあとの『ラストムービー』を先にとりあげてみたい。
初めての監督作品で時代の寵児になったホッパーが
この2作目で、天国から地獄へ、
つまりハリウッドを追われる身になったいわくつきの作品である。

「呪われた映画」「わけのわからない映画」「自由すぎる映画」「挑む映画」・・・
なんとでも好きにいうがいい。
だが、この作品には通常の映画には見られない確固たる世界がある。
デニス・ホッパーを突き動かしてきた映画への愛そのものである。
狂気そのものである。
誰も撮ったことのないものを撮ってやろう、
まるで文法など糞食らえ、そんな野心に満ち溢れ
文字通り、彼は、そのスタイルを貫こうとした。
当初、出来上がった脚本には、だれもが飛びついた。
『イージー★ライダー』の成功の才能に、だれもが期待した。
しかし、この異端児は、けして脚本に忠実に撮ろうなどという
予定調和を満たす男などではないのだ。
ジャンプカット、あるいは混乱をきたす時間軸の混乱、
本気だか演技だかわからない演技、演出・・・
そこで仕上がったものは紛れもなく、あのデニス・ホッパーの映画だ。
オーソン・ウエルズは、ユニバーサルの権力の前に
あの『黒い罠』を不本意に書き換えられてしまったが、
デニス・ホッパーはそれを断固拒否。
おかげで、お蔵入りという勲章が授与されてしまった。
権力に抗うことで、もみ消されてしまう十年間のはじまりだ。

遠い昔インカ帝国として、その文化の中枢を誇った村
コカの葉で未来を占う太陽の祭りインティライミで有名な
ペルーのクスコにまで繰り出して映画という文明を持ち込み、
その魔法で、ふたたびその住民たちの眠る欲望を刺激する映画だ。
理性や道理だけで済む世界ではない。
本物の撮影隊が帰った後に、
映画の魅力にとりつかれた村人たちがその真似事を始めるが、
彼らは、本物と虚構の区別がつかない。
おもちゃ同然の竹の機材にお前で本気で殴り合う喧騒。
事態はまるで祝祭のように、熱を帯びてゆく。
デニス・ホッパー演じるスタントマンカンザスは、
LSDやコカイン、そしてアルコールに溺れながら
その虚構の深みにはまってゆく。
現実と虚構のはざまで、村人たちは神に出会ってしまう映画・・・
すなわち映画の本質に訴えかける、恐ろしい現実が映し出されるのだ。

これは傑作だとか幻のムービーだとかいった
安直な言葉で片付けられない映画として記憶されるべきだ。
映画というものに、ひいては文明や資本主義社会への挑戦でもある。
その意味で、『ラストムービー』は
『イージー★ライダー』以上に重要な作品であり
以後デニスの運命を、よくもわるくも狂わせた作品として
はっきり刻印しなければならない。
デニス・ホッパーにしか撮れない映画として。

ぼく自身、これまでデニス・ホッパーの写真や絵をめぐっての
アーティスト感性を強く支持してきたのだが、
そのフィルモグラフィを必ずしも順当にすべて追ってきたわけではない。
デニスが監督した計9本の映画、俳優として出演した映画を含め
デニス信者を宣言するまでに、まだその魅力を再発見する余地を十分残している。

ニック・エベリングによるドキュメンタリー映画
『デニス・ホッパー/狂気の旅路』を観ると
デニスがいかに、愛されてきたか、
この『ラストムービー』にいかに想い入れていたか、
何よりその運命を握る重要なアーティスト(映画人)だったことがうかがい知れる。
しかし、よく考えてみると、やっぱりデニス・ホッパーは
いつも危険な橋をわたってきた。
そして、一つの確信を得ることになる。
そこには、本物の、嘘偽りのない魂をもつがゆえに
宿命として、映画の狂気にかりだされてしまうのだと。

最初はヴェンダースの『アメリカの友人』経由だった。
そういえば、『アメリカの友人』でビリアード台で
ひとりポライドで自撮りするシーンがあったけれど
あれはデニスのアドリブだったそうだ。
また、共演のブルーノ・ガンツとの大ゲンカ話までが
ヴェンダースの口から暴露されるが、
その時は、まだ、デニスの真の狂気を察知できはしなかった。
そのあとに『イージー★ライダー』をみて、
時代の空気感を背負ったその雰囲気に、すっかりやられてしまった。
そして今回『ラストムービー』を見た。
その余韻で、一気に書き上げてしまいたくなってくるほど、
やっぱりデニス・ホッパーらしさが充満している。
これほどまでに、映画の自由さ、恐ろしさを
同時に体感させうる映画をめざした作家がハリウッドにいたのだろうか?
オーソン・ウエルズと並ぶ、この異端者はそうやってまさに抹殺されてゆく。

1971年当時、まさに時代の寵児たる自信と輝きに満ちてはいるが、
すでにどこか、常に危険で孤高なオーラを纏いながら、
脱ハリウッド、真の自由な表現、映画の可能性に向かって突き進もうとする
野心的で、無軌道ぶりが画面にしっかり滲み出している。
この映画のポスターのキャッチに「死に場所を、探せ」とあるが
なかなか、ステキなキャッチだと思う。
ずばり、この映画を要約すれば、映画への愛と覚悟である。
自由で、奔放で、映画というものの不思議に満ちた一編の詩だ。
デニス・ホッパーの死に場所こそはやはりこのスクリーンがふさわしい。
それがたとえ演技だとしても。

『ラストムービー』。
文字通り「最後の映画」とはいえ、ここで終わらせるわけにはいかない。
LASTには動詞で「続く」という意味がある。
ふと頭の中でブルーハーツの「終わらない歌」が流れ出した・・・
「歌」が「映画」に変わっただけだ。
デニス・ホッパー、あなたは決して死ななかった。
虚構の死に、誰もが復活の狼煙を待ちわびたのだ。


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