アレクサンドル・メドヴェトキンをめぐって

アレクサンドル・メドヴェトキン
アレクサンドル・メドヴェトキン

水玉模様に幸福の現象学を見る

関東には、なかなか梅雨がこない・・・
こないにこしたことはない、と考える人は、ちょっと考えが足りないと思う。
雨はけして災害などではない。
摂理なのだ、恵みなのだ。
周りで一滴でも雨が降ると不機嫌になる人がいるが残念なことだ。
雨に罪はないのである。
こちらは、雨の日には、なにかと物語が膨らむ人間で
雨というムードからいろいろ物語を読み解くのが楽しかったりする。
手に傘を持ち、平衡感覚が微妙に狂いながら
足下の水たまりや濡れた道路の感触を意識するなんて
晴れた日にはない素敵な感覚さ。
それでもって、肌は心持ち潤いの恩恵をうけているかのように
外気に触れて微笑むってわけなんだよ。

確かにこの時期の雨は粘着的でじとっと付きまとってくるのが増える。
それは確かにやっかいなものだ。
だが、それが日本の風土にさけられぬものだ、つまり恒例行事である。
それを理解して、一ヶ月程度の時期をやりすごす。
そうして、夏がやってくる。
そうやって、昔から、梅雨シーズンを過ごしてきたではないか。
それに、雨と一口で言っても
物語は常に同じというわけじゃない、ということにおいて
ぼくは密かな『幸福』をも読み解いてみようというわけなんだ。

『幸福』、唐突に幸福だなんてもちだしたりなんかして
君は究極の楽観主義かい、と思われるかもしれない。
いやね、この『幸福』はちょうど映画のタイトルなんだよ。
ロシアのアレクサンドル・メドヴェトキンの『幸福』のことをいっている。
民話の中に革命と狂想曲を織り交ぜた
キノフェリトーンと呼ばれる政治的な風刺喜劇で
スターリン時代、ソ連サイレント映画末期の幻の傑作は、
当時上映禁止を受け、激しい弾圧に屈した問題作なのだ。
そして、その『幸福』に対し、幸福にもクリス・マルケルが感じた幸福を
これまた思い起こしたってわけなんだ。
つまり、「幸福」の外を包む幸福、外気にふれた幸福をめぐって
彼はメドヴェトキンへのオマージュとして
『アレクサンドルの墓 最後のボルシェヴィキ』という映画をつくったわけだ。
これを観て、人は幸福になれたのだろうか?
少なくともぼくは二度観て二度とも幸福になれたよ。

そうなんだ、この幸福は、メドヴェトキンへのヴェデオ書簡という名目を借りて
実はロシアの近代史をも暴いてみせる、そんなからくりのドキュメンタリーだ。
ある意味で、政治と映像をめぐって、相当に毒がある。
でも、クリス・マルケルといえば『ラ・ジュテ』や『サン・ソレイユ』を観てわかるように
親しみを禁じえない一人称のナレーションで
ときに、ユーモラス、実に多弁な面白い詩的な映画を作る人なんだ。

それになんといってもロシア古典映画の引用の数々
とりわけメドの『幸福』の引用に驚くはず。
まったくもって、この『幸福』の映像はすばらしい。
(機会があれば絶対に観てほしい! そして語り合いたいと思う)
1930年代のロシアで、こんな映画が作られていたこと自体奇跡だと思う。
水玉模様の馬、シースルーの女たち。
そして、仮面人間たちの滑稽さ・・・
とにかく、ぼくはこのメドヴェトキンの『幸福』を初めて見たとき
むしろメドヴェトキンという響きが頭から離れなくなったほど
頭がメドヴェト菌にやられたと思ったぐらいだ。

そして生前のメドヴェトキンのインタビューはじめ
「幸福」「新モスクワ」といったメドヴェトキン映画引用や
当時のニュース映画を盛り込みながら
その関係者であるスタッフや、メドヴェトキンの娘さん、
教え子や映画史家たちを一堂にあつめて
クリス・マルケルが実に貴重で詩的に昇華した形でみせてくれた。
がしかし・・・・
クリス、君がペレストロイカ崩壊のロシアで人民にカメラを向けたときに
どれほど「冷たい現実」をみたか、
最後のほうの映像から、僕は読み取ってしまったよ。
これはロシアという巨大な社会主義国家の崩壊の記録でもあるわけなんだね。

それにしても、歴史の捉え方、見せ方において
クリス・マルケルほど情感をたずさえて、
映像という手段でうまく再構築してしまう作家を知らない。
彼は語りかける、そして、奥ゆかしく「愛」を忍ばせる。
だから、その映画を見て「幸福」を感じるのはいっこうに不思議ではないだろう。
映画が終わってさっきまで「幸福」の断片が映写されていたところに
ぼくの幸福のまなざしを投げかけておこう!

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