諏訪敦彦『風の電話』をめぐって

風の電話 2020 諏訪敦彦
風の電話 2020 諏訪敦彦

透明さを通じて不透明さを知る。いまこそ風の言葉に優しい眼差しを

今年もまたあの忌まわしい瞬間がやってきて
そして風のように過ぎ去っていった。
今から10年前、3月11日午後14時46分の記憶。
この覚えのない痛みを、
どこからともなく受けてしまうことになる一日、時間を
当事者、関係者以外のものが、さも自分のことのように受け止め続けることは、難しい。
ある意味、それは真理でもあるから、いい悪いの問題でもない・・・
などと書いていいものだろうか?

未曾有の津波に呑みこまれた
あの日、あの時の東北地方を見舞った忌まわしき災害を、
単に過ぎ去った過去の事象だと片付けることはないのだが、
どこまで個人の痛みとして受けとめればいいのか
いまだ、よくわからないでいる。
僕はあの時、あの瞬間に、別の場所で生きていたし
実際、なんの被害も被ってはいない。
ちょっとおっきな地震であった、と今でも思いだせる。
ただ、想像を超えた事態を後日知って、
どういっていいものかわからないまま、生きてきた。
なにひとつ、献身的なこともやってはこなかった。
うわべだけのうすっぺらい同情が何の役に立つというのか。
この十年という歳月をへて、
事態が過去の出来事として語られ、
まして他人事として、やり過ごす重さについて
いくら考えても明確な答えなど、出せるはずもないのである。

しかし、思いは人の数だけある。
そのことは、よくわかるし、決して風化されることはないだろう。
いろんな人の言葉を通し、
限りなく不透明な闇に光をあて、想像することはできる。
それはどこからともなく聞こえてくる、
いわば心の声に耳を澄ますことに似ているのだと思う。
だが、被災者の身内や関係者の心に
他人が土足で入ることなど、できるはずもないのだ・・・。
こればかりは、そういうものなのだ。
だからこそ、自分自身の目を通した物語があっていい。
いや、語らねばならないのだ。

そんな折にある映画を見た。
諏訪敦彦監督による『風の電話』である。
日本というよりは、むしろ海外での評価が高く、
主に、フランスを拠点に映画製作に関わってきた監督である。
ある意味、日本人でありながら、
どこか他の日本の監督とは異なる視点で、映画づくりに関わってきた作家だ。
その活動、方法論は、実に興味深いものだ。
いわゆる劇映画、エンターテイメントというカテゴリーで語られるには、
あまりに特殊なスタンスで映画を作り続けている稀有な作家だからである。

そんな諏訪監督が、2001年 の『Hstory』以来
約20年ぶりでこの日本で映画を撮った。
それが『風の電話』という3.11を題材にしたロードムービーである。
広島から岩手まで約1300 kmの道のりに起きる出来事として
一人の被災者の少女の目を通した旅物語が綴られている。
これまで、主に、室内劇を中心にした
「動かない」映画を撮り続けてきた監督自身の新境地、と言えなくもない。
風の電話とは、岩手県大槌町にある
今は亡き大切な人との思いを繋ぐ電話として設置された
電話ボックスのことである。
被災者であるガーデンデザイナー佐々木格氏が自宅に
死者との対話をもとめて設置したのだという。
大切な故人とを結ぶ一つの祈りの場は、今も訪れる多くの人に開かれている。
シンプルでありながら、そのネーミングに事態の本質を汲み取ることができよう。

そんな「心の傷を癒す場」をモチーフに映画化された本作で
震災で家族を失い、広島の叔母のもとで暮らす
17歳の少女ハルを演じたのは
モトーラ世理奈という女の子である。
その存在感は、この映画に関わった俳優たちが皆
口を揃えて驚くほどの輝きを放っている。
もちろん、それは映画を見れば十分伝わってくるものだが、
なにか特定の色にそまっていない、無印の魅力がある。
不思議なアウラをもった女優である。
この先、どんな女優になってゆくのか、興味は尽きないが、
少なくとも、台本や筋書きを主体にしない即興演出で知られ、
他の映画の現場とは全く違う諏訪組の現場で、
映画をそこなわずに、自身の個を維持することは、
いくらキャリアを積んだ俳優でさえ簡単なことではない。
その意味では、まるで異邦人のようにそこにいる姿に引き込まれる。
ある意味、被災者というのは、世迷い人であり
この現代にさすらう異邦人なのかもしれない、
そんな思いにかられるのだ。

広島という地は、監督自身の郷里でもある場所だが、
同時に忌まわしき被曝の地でもある。
その地で全てを失ったハルが、行く末のない思いを抱えて
再出発を余儀なくされ、叔母の保護のもとなんとか生きている。
だが、唯一の身内である存在がある日唐突に病に臥して、
ひとり残されたハルの思いは、再び故郷へ向かうしかない。
そういうところから、物語は始まる。
そうして出会ってゆく人々、全てが彼女の味方というわけでもないが、
総じて、この打ちひしがれた少女に寄り添う人間は優しい。
旅の伴侶になる、西島秀俊扮する森尾もまた、
同じくこの被災によって痛みを抱えている人間であり、
ここにも、不思議な糸が張り巡らされていることを知る。
ハルにとっては森尾は他者でありながらも、自身の幻影でもあるのだと。

しかし、この映画が真に心に刺さってくるのは、
この世は、まだ捨てたものではない、
などといった人の温もりを感じるためだけの、情的帰郷ではないということだ。
彼女は、自分自身を取り戻すための旅に出るのだ。
新たに、人生を生きてゆくために、通過しなければならぬ道がある。
それが一本の道として、風の電話へと向かわせることになる。
失われた家族、そして時間を埋めることは何人にもできないが、
その現実を理解して、向き合うための場所を通じて、
彼女はようやく一歩を踏み出す。
このラストシーンは、新たな人生の始まりを孕んでいる。
その一歩は、どんな薬より彼女を強くするだろう。
この10分に及ぶラストシーンのモノローグは
当然のごとく、シナリオにはない彼女自身の言葉である。
諏訪映画の演出の本質は、映画とともにたちあがる俳優の言葉を
その俳優自身から引き出すことである。

こうして、映画というフィクショナルな擬似空間を通して
ハルが感じた言葉のすべてがそこに凝縮される。
物語は終わるが、人生は続いてゆく。
実に静かで力強いエモーショナルなシーンに、
ハルの物語、そしてこの震災の物語を観る。
ぼくもまた、偶然の旅人だが、目をそらさずただ見つめること、
それが、ぼくができる唯一の被災者への共感なのである。

大橋トリオ : テレパシー

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