バーバラ・ローデン『ワンダ』をめぐって 

なんだかんだワンダ

ペンシルベニアの炭鉱町に住む一人の女ワンダ。
ボタ山を歩く、米粒のように小さな姿をロングで捉えたショットから始まる。
彼女は数少ないであろう知り合いに金の工面をしようと向かうのだ。
よくみれば、頭にカーラーをつけたままである。
彼女は一応子持ちの主婦のようだが
家事をやらない、子育てもしない、飲んだくれている。
男にもルーズ、というか何かにつけ、覇気がない、
いってみればオツムもちょっと弱いような女でさえある。
昔なら、こういうタイプの男は結構いた気もするが、
女というだけで、下げずまれる社会と時代背景のなかで
彼女は社会の周辺にいて、かろうじて生きている。
自我とは何か?を突きつけられる、
居場所なきひとりの女をめぐっての一本の映画が『WANDA』である。

バスに乗って遅れぎみにやってきた裁判でも
一方的な言い分を受け入れ、無抵抗に親権を放棄すると
その後はゆきずりの男には簡単に身をまかせるも
即捨てられてしまうといった生活ぶりで、
仕事ではとろいといわれ首になり、
映画館でなけなしの銭を盗まれ文無しになるといった、
絵に描いたように、みごとに薄幸ぶりがつきまとって離れない、
そんな彼女をみて、人は自業自得とでもいうのだろうか?

そんな女が強盗の片棒を担ぐ物語である。
それも成り行きだ。
望んだわけでもあらかじめ目的や使命があったわけでもない、
男に惚れたわけでもない。
結果として、目の前に差し出されたものに
しょうがなく乗っかかっただけだが事が大きすぎた。
最後の最後まで幸せには程遠く、
その強盗という使命さえ全うできず、
そのもどかしさをにじませながら、彼女は永遠のダメ女ぶりを
これ以上ない物悲しさでもってスクリーンから投げかけてくる。
かといって、ラストで自立精神が芽生えたわけでもないが、
言いよる男を初めて拒否するシーンが印象的だ。
それでも、この先もきっと同じように生きていくのか、
あるいはどっかで運が尽きるのか・・・
いずれにせよワンダの宿命は物悲しい。

実際にあった銀行強盗事件から着想した作品であり、
バーバラ自身の身の上に多少はかぶるようなところがあったのだろう。
ただ、どことなく「ボニー&クライド」を彷彿とさせる、というのはちょっと違う。
だからアーサー・ペンによる『俺たちに明日はない』
あんなにドラマチックというわけじゃない。
感情を廃しながら、運命に身を委ねている感じから
こみあげてくる感情の切なさに、温度も色もへったくれもない。
バーバラ・ローデンが生前、唯一残したこの監督作品『ワンダ』は
自ら監督・脚本・主演したが、
誰も撮る人間がいなかったから、自分で撮ったのだ。
その意味では、実生活ではそれなりの意志があったと見るべきか。
いや、別段野心などあったとは思えない。
だからこそ、この映画の雰囲気に引き込まれてしまう何かが強くあるのだ。

この言葉を聞いて、一応納得する。

 私は無価値でした。友達もいない、才能もない。私は影のような存在でした。『ワンダ』を作るまで、私は自分が誰なのか、自分が何をすべきなのか、まったく分からなかったのです。

しかし、たった一本撮ったこの映画が
ヴェネチア映画祭最優秀外国映画賞を受賞した。
にもかかわらず、アメリカの映画業界はこれを黙殺した。
女性解放運動真っ只中のアメリカで、
受け身で無気力なヒロインの映画が受けるわけもなかった。
とはいえ、そんな映画を「失われた傑作」として
支持するものは少なくなかったのだ。
まずは、あのデュラスが熱を上げ、配給したいと夢見ていたが
それをイザベル・ユペールが配給を買って実現にこぎつけた。
ジョン&ヨーコをはじめ、カサヴェテスやダルテンヌ兄弟、
ソフィア・コッポラにスコセッシ、あるいは
作風に影響を受けたケリー・ライカートなどがこぞって賛辞を送っている。

映画史は彼女をカサヴェテスの女版だと位置づけていたように、
その存在はちょっとばかし早すぎたのかもしれない。
インディペンデント作家にふさわしい映画と呼ぶにやぶさかではない手法が随所に使われている。
製作費16万ドル低予算製作、16mmの手持ちカメラでドキュメンタリータッチ、
市井のロケーションを好み、
Mr.デニスを演じたマイケル・ヒギンズ以外皆地元の素人を起用する。
で、みずから主演ワンダを演じているが、演出はその場でのほぼ即興が主だという。
どこまでが演技なのか、まさに地のようにふるまうナチュラルさが
奇跡のような映像を生みだすことに成功している。

バーバラ・ローデンは『欲望という名の電車』『波止場』『エデンの東』
などで知られるハリウッドの巨匠エリア・カザンの妻であり、
実際カザンの元で、1960年の『荒れ狂う河』でスクリーンデヴューをかざり
続く『草原の輝き』とキャリアを積み上げるも、
ハリウッドの巨匠であるカザンには、どこか負い目のようなものを感じていたという。
そんなカザンが94迄長寿に生き延び、映画史に実績を残したのとは裏腹に、
バーバラの方は48歳というほぼ半分で、志なかばで他界。
まさに両極端な人生のようにも思える。

だが、バーバラ・ローデンにはエリア・カザンが逆立ちしても撮ることのできない
真の傑作を撮りあげたのだ。
それが『WANDA』であり、長い年月を経て、
ようやく時代はその価値を見直そうとしている。
まさに奇跡のような一本の映画がここにある。
映画におけるワンダという主人公に、はたしてどこまで共感できるかはわからないが、
すくなくとも、自身を重ねあせて、そのどうしようもないやるせなさに
悶々とする女性がいてもなんら不思議ではないのだ。
しかし、このワンダには、どんな同情も、他者からの共感も
必要としてはいないかのように思える。
まさに野良猫である。
ワンダはワンダにしか理解できない女を地で生きるだけなのだから。
唯一、必要とされたのが強盗の片棒で、
彼女にとって倫理の問題ではなかったのだ。
『WANDA』が素晴らしいのは、このヒロインを新たなヒロイン像の一ページを
飾るような女として描かなかったことではないだろうか?
ただ謎であり続けることだけが純粋に素晴らしいのだ。
そしてその輝きをもって、バーバラ・ローデンという秘めたる可能性を
この映画は静かに語りかけてくる強さがあるのだ。

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