オリヴィエ・アサイヤス『イルマ・ヴェップ』をめぐって

IRMA VEP 1996 Olivier Assayas
IRMA VEP 1996 Olivier Assayas

マギーとイルマのいる映画

オリヴィエ・アサイヤスによる90年代フランス映画
伝説の怪作『イルマ・ヴェップ』もまた、
フェリーニの『81/2』やゴダールの『パッション』、
ヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』
あるいはキアロスタミの『そして人生は続く』や『オリーブの林をぬけて』同様、
映画制作の現場〜舞台裏を描くメタフィクション映画だが、
比較的わかりやすく、とっつきやすい作品と言えるのではないだろうか?
などと思うには思うが、とくにドラマティックな映画というわけでもなく、
また、ことさらにストーリーを追う映画でもない。
いうなれば、ポストヌーヴェル・ヴァーグな映画であり、
ここでは、目に入れて愛でる映画、でもある。

イルマヴェップ(IRMA VEP)とは、VIMPIREのアナグラムであり、
すなわち、吸血鬼のことなのだが、
これは1915年にパリで作られたサイレント期の連続活劇、
ルイヤードの『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』をリメークをする、
という劇中映画の話に絡んでいるのだ。

そこで、ミスター・ヌーヴェル・ヴァーグこと
我らのジャン・ピエール=レオーが現れるや空気が一変する。
ルネ・ヴィダルという監督役を演じているのだが、
レオーという人は、こういう役をやらせたら天下一品というべきか、
うんうん、確かにこういう監督いるよね、いそうだよねってな感じを
実にうまく醸し出す、言い得て妙なのである。
もちろん、カイエ・デュ・シネマ上がりのアサイヤスの、
リスペクトあっての起用は言うまでもないところ。
八十年代以降のレオーの起用には、いつだってそういうニュアンスがあった。
まさに劇中のルネ・ヴィダルは、どこか気難しく、気まぐれで、真の孤高。
一筋縄ではいかない映画監督というポジションを、絶妙にこなしている。
ノイローゼ気味とはいえ、かなりの偏狂な人間で、しかも怒ると暴力も辞さない。
当然スタッフ受けは悪く、周りの批評家からも
そんなスタイルをボロクソにこき下ろされているような立場を
そこにいるだけなのに、さも雄弁に語り得てしまうのがレオーたる所以だ。
ちなみに、このレオー、
ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』ではTVディレクター、
トリュフォーの『アメリカの夜』や、最近では諏訪敦彦の『ライオンは今夜死ぬ』で
それぞれ劇中内映画でのメタ演技をこなしている。

一方、この映画の主役は言うまでもなく、香港の女優マギー・チャンだ。
主演のカンフー作品を見た監督に見込まれて起用されるという流れで
映画のバックグラウンド話からスタートするのだが、
ルイヤード版で、そのイルマ・ヴェップを演じたのがミュジドラという、
当時パントマイムや演劇界で活躍し、そのまま映画へと移行し、
最後は女優監督としても名を馳せた映画史のカリスマだ。
そんな伝説の女優にも引けを取らない雰囲気が、どこか、このマギーにはある。
ルイヤード版は連続活劇ゆえ、400分弱もあるゆえ
全てを見てはいないので、このサイレント作品については深く言及できないが
翻訳字幕付きの動画で断片は見たことがある。
本編にも、その映像が断片的に引用されていることもあって
その雰囲気はなんとなくはつかめる。

当時の批評家からはあまり評判は良くなかったようだが
戦時中にも関わらず、大衆からは大いに受け入れられヒットを記録。
かのアンドレ・ブルトンなどのシュルレアリストたちでさえ熱狂したというから、
それなりの革新的映画だったのは想像に難くない。
犯罪スリラーというジャンルとしてなら、その走りといって過言ではなく、
後のヒッチコックやフリッツ・ラングなどへの影響も大きく、
そんなバックヤードながらも
「目と心を楽しませる手段」だと言ってのけるフイヤードの意図は
今日の映画のエンターテイメント性の嚆矢たる位置付け作品だと言っても
差し支えないのかもしれない。

本編がそのリメイクということで、
ミュジドラのヴァンパイアメイク、そして黒ずくめタイトなぴっちりの衣装が
そのまんまマギー・チャンにも流用されている。
ちなみに、この衣装がのちの『バットマン』のセリーナ・カイルこと
キャットウーマンのコスチュームに多大に影響を与えているのもよくわかる。
身体のシルエットがはっきりとわかるこのコスチューム、
どこか艶かしさと女性らしさ、そして動物のようなしなやかさをもにじませ、
その官能性はマギー・チャンの魅力として最大限に引き出されてゆく。
それだけでも十分「目と心を楽しませる」映画になっているのだが、
このイルマ・ヴェップ役をマギー・チャンが
劇中映画に招かれた香港大スター「マギー・チャン」として演じているのだ。
まさに、自身で虚構と現実の狭間に揺れている役を演じている。
どこまでが本当の彼女か? などと、
そんな野暮な質問など決して口にしてはならない。

この映画内に、あのレオーがいて、そしてビュル・オジエがいる。
かのヌーヴェル・ヴァーグの製作現場を熟知しているスターたちがいる、
なんとも贅沢なメタフィクション空間である。
そのビュル・オジエ演じるミレイユの家でのパーティーでのこと、
そのミレイユと衣装係のゾエがキッチンで
マギーのセクシュアリティについての話に夢中になる。
ゾエはマギーに恋しているのだ。
実際の製作現場には、こういった話がわんさと聞こえるのだろう。
まるでロメール映画の雰囲気さえ漂わせ、
確かにヌーヴェル・ヴァーグの系譜に位置する映画ということを裏付けるような、
このドキュメンタリー風の一連のパーティーシーンがなんとも素晴らしい。

アサイヤス自身、余程、この企画が気に入っていたのか、
まだやり残したことがあったのか、
2022年にはアリシア・ヴィキャンデルを主演に迎え、
自らの1996年度版のリメイクをドラマシリーズ化している。
ただし、最初に撮った1996版がはっきりマギー・チャンありきの映画になっており、
彼女自身の魅力が満載の、マギー・チャンドキュメントと呼べるような内容で、
撮影後、アサイヤスとの交際が始まり、一時は蜜月期を過ごしたものの
わずか3年で離婚している。
その意味では、アサイヤスにとって特別な位置にある作品といえるだろう。

離婚後もマギーは2004年にアサイヤスの『クリーン』に出演するが、
その後は長らくの沈黙期に入ってしまう。
そこで、2014年にはかねてからの夢だったというロックバンドのボーカルとして
新たに歌手デビューするのだから、ちょっと変わった経歴の持ち主でもある。

個人的なマギー・チャンとの出会いは、
ウォン・カーウァイの初期2本『いますぐ抱きしめたい』および『欲望の翼』であり、
そしてスタンリー・クァンの『ロアン・リンユィ 阮玲玉』だ。
映画自体も良かったが、マギーもちろん、それぞれに輝いており、
このロアン・リンユィこそは、25歳で自殺した1930年代の香港の大女優、
このイルマ・ヴェップにも通じる、映画におけるメタフィクション空間を
共有しうる作品として記憶の片隅に今もあるのだ。

そんなカーウァイ組のキャメラマンであるクリスファー・ドイルの取り持った縁で
迎えられたこの『イルマ・ヴェップ』では、
パリという異国での孤独はもちろん、
女優としての孤独、あるいは女としての孤独。
そして演じること、創作への孤独をにじませ、
黒いビニールスーツに身を隠しながら、沈黙と困惑と微笑みを重ねつつも
まるで蜘蛛のように階段や屋根を駆けめぐるマギーの美しさがひときわ映える。
彼女がホテルにもどって、
ソニック・ユースの『Tunic (Song for Karen) 』が流れるなか、
ブラックコスチュームのまま、見知らぬ泊まり客の部屋に忍び込み
ミュジドラの如く、宝石を盗み、その足でスルスルと階段を駆け上って
雨の屋上に出て、その宝石を地上に投げ捨てる。
そぼ降る夜の雨に打たれ濡れ光る黒い全身のマギー。
夢か幻か、思わずその官能性に息を飲むシーンだ。

さて、この映画のオチはいったいなんだろう?
あるのか、ないのか?
結局物語としては、映画の始末を負わねばならない。
失踪したルネ・ヴィダルの後をルー・カステル扮するジョゼ・ミュラが
凡庸な監督としてその尻拭いをすることになるのだが、
レオーはただでは終わらない、とばかり、
その編集した傷とノイズだらけのマギーを刻印したフィルム、
幻の「イルマ・ヴェップ」の試写が上映される・・・。

これだ、まさに待っていたのはこれだ。
それまでのモヤモヤを一気にかき消すような、
戯れの果てのような、遊び心いっぱいのマギー=イルマ・ヴェップが
モノクロームの映像のなかで躍動する。
もちろん、それだけで十分なのだ。
おそらく、レオー演じるルネ・ヴィダルが残した
会心の現代版「イルマ・ヴェップ」に、こちらがひとりごちている隙に
映画はLUNAによるゲンスブールの名曲「ボニー&クライド」のカバーとともに
エンドロールしてゆくなか、
夢でも構わない、こんな映画空間に紛れ込んでみたい、そうつぶやいてしまうのだ。

Sonic Youth – Tunic (Song For Karen)

映画で流れる「Tunic 」はソニック・ユースの『ムーレイ・ストリート』からの曲。このアルバム、ちょうどジム・オルークが正式に加入したときなんだよね。リー・ラナルドの歌と曲の疾走感、とってもかっこいい。音がやっぱし違うな。で、これってあのカーペンターズのカレンに捧げられたナンバーなんだよね。カーペンターズってあんなに成功したのに、カレンって確か、拒食症かなんかで不幸な最後を遂げた人だった。そこに至る精神的な闇の部分まではわからないけど、音楽ビジネスの世界の恐ろしさを感じたものだった。そんな曲がどういう経緯で、この映画に使われたのか、まではよくわからないけど、内容はコミュニケーション障害ってなことなんだろうか。映画にはものすごくマッチしていたな。カラックスなら、ボウイとか、スコット・ウォーカーを使うんだろうけど、アサイヤスはソニック・ユース。九十年代的。そのセンスにハッとしたな。

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