サンドリーヌ・ボネール『彼女の名はサビーヌ』をめぐって

彼女の名はサビーヌ 2007 サンドリーヌ・ボネール
彼女の名はサビーヌ 2007 サンドリーヌ・ボネール

精神女刻印。見守る力は愛の力なり。

ガンをはじめ、死に至る病に対する克服への思いは
人類共通のテーマである。
昨今の医学的進歩は、そのことに、
すでにある程度、光明をみいだしつつあるのも事実で、
もちろん、不老長寿への人類のあくなき探求が
永遠に解明されることなどないのだから、
あくまでも、早期発見や疾病予防等によって
事態を幾分軽減することぐらいのレベルにすぎないのだと、
そのあたりのことは重々承知している。

ところが、精神の疾患に関しては、実に闇が深い。
というか、実に繊細かつ難しい病である。
まして現場も実情も何も知らない、と言っても過言ではない。
誤解を恐れずにいうならば、聖なる病なのかもしれないとさえ思う。
確かに、薬もあるし、治療法もしっかりうたわれてはいるが、
それはあるレベルの、特定の傾向を持つ患者にとって有効なものにすぎない。
なにしろ、人間の精神崩壊の問題は、あきらかな肉体の部位的な疾患以上に
まずは定義そのものが困難な個人の心の領域にあるからだ。

それは、一見健全なものが、
ある尺度に基づいて、定義するしかないのであり、
当人にとって、何が最適な処置であるのか、
果たして、それはいかなる状況下なのか、
明確なものなどないのだと認識している。

重度の人間は、なんらかの保護下のもとに
施設に収容されたり、監視下のもとに根気よく見守る必要があるが、
その兆候に自覚なきものや、のばなし状態、
それこそ、鬱、自律神経失調、ノイローゼ
そう言った慢性的な疾患者を含めれば、
この世には、軽度の精神疾患者などはごまんといる。
いや、そんなことをいったん考えはじめれば
正常なものでさえ、ずぶずぶと沼地におちてゆくような
危うさに抱えこまれてしまうだろう。
まさに、精神の病とは禁断の領域であり、また不可避でさえあり、
我々全ての人類共通の病でもあるのだ。

それを身内にかかえてしまった親族の思いは一筋縄ではいられない。
筆舌に尽くしがたいものがある。
サミュエル・フラーによる『ショック集団』では、
ミイラ取りがミイラになる、と言った
実にショッキングなこの精神疾患のテーマが描かれていた。
だから、軽々しくは扱えないというのが正直なところであるのだが、
同時に、他者のこころには容易に入り込んでくる。
いわばこの“人事”は興味本位な物語をもにじませてしまう事にもなる。

モーリス・ピアラの『愛の記念に』で若干14歳でデビュー以来、
フランス映画界で、着実にその女優としての才能を開花させてきた女優
サンドリーヌ・ボネールがはじめてメガフォンを撮ったのが、
この一歳年下肉親である妹サビーヌである。
幼い頃から才能豊かだったこの妹は、同時に自閉症という疾患の中で、
母親と兄と暮らしていたのだが、
その母親がなくなると、28歳のときに精神病院に入る。
しかし、病気は改善されることはなく、
それを機にみるみるうちに、精彩を失ってゆくのである。
その現実の過酷さに、耐えきれなかったであろうこの女優は、
それを映画という形で、見つめなおすのが本作である。

表現者にとっては、このアンビバレントな感情と
うまく折り合いのつくものだけにゆるされるこの危険な賭けは、
女優として一本の映画で難しい役をこなすのとは訳が違う。
相当な覚悟とセンスがいっただろう。
サンドリーヌ・ボネールの妹であるサビーヌは
まさにそうした対象として、カメラの向こうで、痛みを晒しているが、
それは、同時に、肉親として、姉として、監督として、
その痛みを共有する覚悟の宣言に他ならない。

サンドリーヌが11人兄弟の7番目で、
しかも、精神を患う妹を抱えているという事実を、
この映画を機に、初めて知ることになるのだが、
やはり、この女優に、常々何か一本芯のある強さを感じてきたものとして
その理由の一つに、なるほど、たどり着くことになる。
早熟にならざるを得なかった環境があり、
改めて思わずにいられないのだと。

一方、カメラの向こうにいる妹サビーヌの青春期が
この姉同様に、若く美しい時間を謳歌する形跡が挿入されている。
サンドリーヌ自身のハンディカムで、撮影されてきた動画に
そうした輝かしい時間が刻印されているのだが、
そんな若く魅力的な妹が、なぜ、
かようなまでの過酷な運命を余儀なくされてしまったのか、
とりわけ、施設に入ってからの彼女が
みるみるうちに、その姿を変えてらしさを失ってゆく過程を、
姉サンドリーヌは、あたかもカメラという十字架を背負って
目を背けることなく凝視しているのだ。
その上で、彼女がこれを映画として
現実を受け入れる覚悟を決めた需要な作品であることを知るのである。

それは憧れだけで、野心だけで映画を撮る、
あるいは演じるといったレベルとは真逆の行為である。
実際に、彼女は、一度カメラを向けた以上、
目の前でどんどんと精神のバランスを崩してゆく妹を見つめながら、
精神のバランスを崩した妹が求める救いの手を、
通常の家族が振る舞うように、容易に受け止めたりはしない。
その虚ろで病んだ眼差しを冷徹に見つめ続けるのだ。
あくまでも、撮る側と撮られる側という関係を崩さず、
最終的に、この愛する妹への感情を
作品という形で昇華することだけに向かって
突き進むしか救いがないのだ。

この映画においては、フランスの医療機関への現実を
真に問う社会的な側面もある。
あれほどまでに、輝いていた妹が、
なぜ、こうまでして、その見るも無残な姿を晒さねばならないのか。
医療とはなんなのか?
果たして適切な治療とはなんなのか?
カメラが捉えた映像の意味は強く
サンドリーヌのカメラは、静かに、その意味を糾弾する。
だがサビーヌは、かつての美しさを取り戻すことはない。
ただ若き本来の自分の写り込んだ過去の記憶を前に、涙を流す。
失われた自己、失われた時間を思って感情が高ぶる瞬間を
監督は、あえて映画として、そこに挿入する。
その思いに真の強さと、映像の力をまざまざと見せつけられるのだ。

自分では押し寄せる危機を乗り越えられない、
不毛の精神疾患者たちにとって唯一の希望があるとすれば、
それは、まず、それを見つめる側に、真の強さがあること、
そういう肉親に見守られているということ、
まさに、この作品はそれを問う映画なのかもしれない。
終いなき姉妹の絆と痛みのエレジー
そこに掛け替えのない愛を読み取るのだ。

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