原一男『極私的エロス 恋歌1974』をめぐって

極私的エロス・恋歌1974 1974 原一男
極私的エロス・恋歌1974 1974 原一男

女は子宮で、男はレンズで、禁断の一線を越える記憶

この世のもっとも神聖で、記念すべきドキュメントが
出産劇であることに誰も文句のないところだろう。
最初にして最後のこの一度限りの出来事がなければ
そもそも生そのものはなく、よって死もへったくれもない。
だが、そんな重大なセレモニーを記憶しづけることは
男がもっとも介入できない困難な領域にある。
なぜなら、出産において、男は絶えず傍観者であり、
究極の他者であるからだ。
出産とは、男の一瞬のオルガスムを受け止めた瞬間から、
その身体性を長期にわたって持続し、
その苦痛から至上の悦びへと解放される女の特権儀式。
生半可な観念レベルで理解できるはずもない。

それを、記憶ではなく、記録として考えたときに、
いったいどれぐらいの男児たるものが
その前のドキュメントに向けて
カメラを手にこの現実を直視できるであろうか?
そんなことだけを問いかける作品ではないにせよ、
原一男の『極私的エロス 恋歌1974』には
その瞬間が、まざまざと写り込んでおり、なんとも生々しい。
その現場が、アパートの一室であり、
しかも、生まれてくる赤子は見知らぬ他者の種がもたらした神秘であり、
そこに居合わせるものに、実の子もいれば
目下恋人である女までがマイク片手に固唾を呑んで見守っている。
すでに、常識の範疇で語るにはとっくにメーターが振り切れているのだ。
それこそは関係のカオス、であると同時に
不思議な調和さえ保っているのだから不思議である。

しかし、人類共通のドキュメントの、
その瞬間の緊張感たるや、尋常でない。
その証拠に、カメラをもつ原一男は、眼鏡をくもらせ、
決定的瞬間をピンぼけのまま、刻印している。
そのことを当事者が、一生の恥だと回想するが、
そんなことは、この際どうでもよい。
この瞬間が、この映画に刻印されていることの意味は、
出産の神秘などというロマンからは遠くへだった、
ひとりの女の主張であり、生き様である。
そして、それはまごうかたなき、
死への連続性の生そのものの始まりを意味する。
まさにバタイユが繰り返し主張する、
「死にまで至る生の称揚だ」というエロティシズムの叫びが
ここに、あられもない姿で宣言されている。
けれども、それは間違ってもエロチックな情景などではないのである。

澁澤龍彦は『エロティシズム』の中の「女性化時代は本当か?」という項で、
「行動的な女というのは、自分を客体にしてしまうことに躊躇しない女」
と言ってのけたが
まさに、ひたすら行動を駆り立てられるこの女性は
原一男の元恋人という位置にある、武田美由紀という女性は、
自分から、被写体として、その全てを晒すことに徹している。
そんな二人の関係を説明するのは、先の出産劇同様
いささかやっかいなことだが、
カメラは、この元恋人へ向けた「極私的」な思いとともに
このひとりの女性の強烈な主張を受け止めねばならない使命との間で
天秤にゆれているのがわかる。
男は、そんな女の元へ、今の恋人を送り込みインタビューを敢行する。
挙句には、順番に出産劇を映し出し、今度は元恋人に見守られるのだ。
ある意味、女の強さと男の弱さ、ずるさが見え隠れしながら、
男の哀愁さえ感じないわけでもない。
言うなれば、哀しき男のドキュメントでもあるのだ。

確かにこの美由紀という女性は強い。
言葉尻に、絶えず鋭いナイフのような一撃が忍んでいる。
同時に、ものすごい“女優”っぷりでもある。
よってこれは通常のドキュメンタリーの態をなしてはおらず、
フィクションとの境界線を、確信犯的に行き来するのだ。
そして、あたかも当時のフェミニズムの中心人物であるかのように、
強い論調で、この元恋人であり
一児の父親でもある原一男に、容赦なき言葉を浴びせる。
しかも、その対象は、何もカメラの向こうの元恋人だけにあらず、
「自立した生活がしたい」と、沖縄へ移住し
そこで寝食を共にするパートナーの女への執拗な攻撃的姿勢から
物語は始まっている。

相手は言葉より、沈黙を選ぶが、
このフェミニズムの魔女は、執拗に、その先の真理を問いただし続ける。
その際に放つ言葉が強烈だ。
「男と女ならセックスという逃げ道があるが、
女同士の場合はそれがない」などと口にする。
結局、この女は、全ての人類に向け宣戦布告しているのと同様、
まさに女帝革命家の意志をもち、
女の地位を解放しようとして、個を奮い立たせているように映る。

そんな女に、未練がある、というところが
原一男のこの映画に対する根本的な動機である。
それゆえに「極私的」というタイトルが強く目に飛び込んでくる。
処女と童貞があるとき出会い、結婚に至り子供までもうけておいて、
処女から女へと変わった女は、結婚という共同体を捨てる。
そこからは、まさに、個と個の純粋な交わりととして
関係がカメラを通して継続されてゆく。
男は、まだ、その共同体意識から逃れられらない。
その意味では、これほどまでに個を晒いた映画を自分は知らない。
そして、それはこの対象である女の意志でもあるのだ。
この結びつきが、この映画の可能な限りの自由を保証する。
改めてバタイユの言葉を借りれば
「禁止に対する侵犯」をも厭わないエロティシズムをめぐっての
男と女の駆け引きが始まるのである。

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