ジャンヌ・モロースタイル『天使の入江』の場合

天使の入江 1963  ジャック・ドゥミ
天使の入江 1963  ジャック・ドゥミ

賭けてみるのは、悪女か美魔女かファム・ファタールか?

日本では長らく未公開作品だった
ジャック・ドゥミによる『天使の入江』を観た。
噂に違わず幻の傑作である。
オープニングやタイトルからは、どんな話なのか想像がつきにくい。
地中海に面する「天使の入江」と名付けられた海岸通り沿い、
ニースの通称「英国人の散歩道」を優雅に歩いているのは
ブロンドヘアーのジャンヌ・モロー。
アイリスインし正面から捉え、
そこからドゥミ&ヴァルダ夫妻の作品で馴染みの
ジャン・ラビエによる一気の高速移動撮影に
ミシェル・ルグランのドラマチックなピアノ曲がかぶさってくる。
うーん、実に素敵なオープニングだ。
ちなみに、この曲は物語の中枢を担う、
ルーレットのあのカラカラした音を意識した曲作りになっている、
ということも次第にわかってくる。
なんとも洒落たからくりがこっそり仕込まれているのだ。

さて、ここでのジャンヌ・モローは
ギャンブル依存症の悪女を演じている。
彼女がこれまで、スクリーン上において
数々の悪女を演じてきたことはしっかり記憶しているが、
それぞれ魅力的なんだよね、悪女っぷりが。
『死刑台のエレベーター』のフロランス、
あるいは『突然炎のごとく』のカトリーヌ、
『エヴァの匂い』のエヴァや『危険な関係』のジュリエット、
他にも『オーソンウェルズのフォルスタッフ』のドルってのもそうだ。
うーん、なかなかのラインナップだ。
そんな彼女の悪女コレクションに改めて加えたくなるのが
この『天使の入江』のジャッキーというわけ。

どんな悪女を演じても、
不思議に露悪趣味ならないのが
このジャンヌ・モローという女優の品格だ。
その優雅さ、アンニュイさ、冷徹で不遜な感じ・・・
それでいて、気がつけば男たちは夢中になっている。
決して正統派の美女ではないけれど
男にとって、なんともいえぬ魔力を持った悩ましい女、
そんな魅力がここでも十二分に発揮されていると思う。
この手の女優は、やはりハリウッドなんかにはいない気がする。
やはり、フランスの文化、土壌に培われた女の生き様なんだと思う。
ちなみに、2017年に89歳でなくっているが、
パリのアパルトマンで孤独死。
いかにもジャンヌ・モローのエンディングに相応しい幕切れだ。
時の大統領マクロンの賛辞、
「真の自由と共に人生を疾走した芸術家」という言葉に偽りはない。

そんなジャッキーが果たしてどこまで悪女なのか?
話はそれるが、少し悪女について、考えてみよう。
近頃では“美魔女”なんて言い方が随分もてはやされている。
一見ファンタジックには響くけれども、
なんだか思わせぶりな言い方で
あんまり、そそられないなって思う。
なに? 気が利いてるじゃない、だって?
ふむ、こっちのオツムがちとばかし古いのかしら?
なあんて思うんだけれど、やっぱし違和感の方が強い。
本物の大人の女性なら、わざわざ自然に歳を重ね
内面から滲み出すナチュラルな魅力の方が
よっぽどマジックだって思うんじゃないかしらねえ・・・
それだって、とっても大変なことなんだから。

所詮、悪女と美魔女じゃあベクトルが違うし
同じ土俵で語っていい言葉だとは思わないが、
悪女の方がかえって、清々しいというか、魅力的な気がしている。
わかってくれるかなあ・・・この微妙な感覚。
そんじょそこらにいる、悪女ヅラするような小悪女
(それをいうなら小悪魔ってやつか???)はさておいても、
美魔女よりかはよっぽど悪女の方に惹かれる人間なんだな、僕は。

古今東西、歴史をひとつ紐解いても
そりゃあいろん悪女があるもんだ。
日本赤軍で名を馳せた重信房子。
時効寸前まで15年もの間日本各地を逃げ回って捕まった福田和子。
幾度も物語のヒロインに押し上げられたが
最後は蜂の巣のされたボニー・バーカー。
私生児からファーストレディにのし上がったエヴァ・ペロン・・・
政治、国家、あるいは一族といった
周囲にまで影響を与えるほどの権力を行使するタイプ、
それこそ、カトリーヌ・ド・メディシスやラ・ヴォワザンなどという
悪女というレベルを超えた、それこそホンモノの魔女級や
呂雉や西太后といった残忍極まりない鬼クラスの、
ゾッとするようなハイランクな悪女まで
ごこごろ転がってるわけなんだからさ。
ま、そんな大物に出会うことなどままあるまい。

そこにわざわざ美魔女なんてものを引っ張ってきても
正直話がかみ合わんのも当たり前の話だ。
そもそも、そんな薄っぺらいものを語る気にはなれん。
まして、ジャンヌ・モローはけして美魔女なんかじゃない。
要するに男にとっては、厄介でありながらも
蛇に睨まれたカエルよろしく、
なんだかんだ、手玉に取られてしまうとしても、
そこにはそれ以上抗えない不思議な魅力の前じゃ
どこかで夢心地ってこともあるんだなあ。
そんな半ば幻想的存在の悪女イメージを
どこかで求めているんじゃなかろうか?
つまり、ファムファタール、運命の女をね。

ジャンヌ・モローという人が
本当はどういう人物だったのか、それはここじゃ全く関係ない。
あくまでも映画を通じての話だ。
でも、彼女が醸す雰囲気には、
どこか、ありきたりの日常に退屈し
自由を求める情熱のようなものを求める女だとはっきりと見て取れる。
しかも、決して男は目的ではないのだ。
贅沢と貧乏を同時に味わえるのがギャンブルの魅力だと考え、
数字に対する神秘に惹かれ、
究極は「ギャンブルは宗教と同じ」だとまで言ってのける始末。
「この情熱で生きてられる」その自由というやつを
誰にも奪われたくないのだと、そうご立派に主張するのだから
あかの他人が、これ以上とやかく言っても無駄なのだ。
ジャッキーはひたすらギャンブルの魅力に取り憑かれた依存症の女だ。

冷静に見ると、単に自分本位で、
かかわるとやばい女ってだけかもしれない。
それでも、はまっていく男がいるのだ。
男の方が、本当はギャンブルなんてものに興味がなかったけれど
ふとしたきっかけで同僚に誘われ
ズルズル深みにはまってゆくその先に
不意の恋の情熱が待ち構えていたわけだが
このクロード・マン演じるこのジャンは
婚約の途中で結婚に不安を感じて踏み出せないような、
そんな情けない男なのである。
そこで出会った一人の女に、改めてかけてみようと考えたのだろうか?

真面目な銀行員くんだりがギャンブルに手を染める話に
女が絡んでくるというおきまりの展開ながら、
そこは陳腐でもなく、痒くなるようなメロドラマでもなく、
こと恋愛だけはオトナ事情で行きつ戻りつ。
最後は如何にかこうにか地獄のカジノから脱出。
二人は幸せになるのでした、めでたしめでたし。
ってな調子で、一応話は終わるんだけども、
どう考えたって、ジャッキーの依存症なんて治らないだろうし
二人の関係だって、うまく行くとは思えないし、
二人の行く末は予想がつく。
でも、そんな先のことを何一つ
リアルに描くような野暮な真似をしないのがドゥミのロマンなんだろう。
そこで、さもハッピーエンドに見せかけて終わる。
その辺りがこの映画のにくいところなんだよなあ。

教訓としては、女もギャンブルも
どちらもほどほどにしなきゃやばいよ、ってことなんだけれども
何事も情熱がなくちゃ始まらないし、長続きもしない。
何かにハマるってことは、まずその引き金を引かなきゃならんのだよ。
そんな意味で、運命がその賭け事の結末を握っているのだとしたら、
その先のことばかりを考えているよりも
時には思い切って運に身をまかせることも大事なんじゃないだろうか。
そんな風にも思えてくるんだな。
そんな折に、もし仮にジャンヌ・モローみたいな女に出会ったら、
こりゃあ、運命という他ないわけだね。
男なら、そんな経験の一つや二つしてみたいものだし、
そんな夢見がちな男でありたいと思う。

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