ラース・フォン・トリアー『イディオッツ』をめぐって

イディオッツ 1998 ラース・フォン・トリアー

演じる愚者は我にあり

あなたは自分自身を賢い人間だと思いますか?
そう唐突に聞かれて、「もちろん」とはなかなか答えにくい。
とりわけ、謙譲の精神たる我々日本人としては戸惑うのが普通。
たとえ思っていても自分で自分が賢い人間などとは言わないだろう。
そもそもこの質問が唐突すぎるかもしれない。
逆に「バカ」だと思ってはいませんよね?
と聞かれればどうだろうか?

奇妙な問いだと改めて思う。
賢いとかバカだとかは、所詮他人が思うことだ。
なんだかまどろっこしく書き始めてしまったが
ラース・フォン・トリアーの問題作『イディオッツ』についての話である。
レストランで、飲食代をタダにするために暴れ、
工場見学で無軌道な行動で担当を不安にさせ、
あるいは粗末な手作りツリーの押し売り、
そこで敷地内の不備で怪我をしたと家主に吹っかけるような粗暴さを見せる集団。
あるいは購買にかけられた家の下見にきた夫婦に
隣接するのが障害者施設だからと執拗に強調したして煽る。
やりたい放題に振る舞うそんな愚行の数々において
ここでは、知的障害者を装うことを武器に社会に挑発的な振る舞いをし
人々の偽善とは何かを世に問いかける集団グループ、
その名も『イディオッツ』について考察してみたい。

この世に嘘をつかない、偽善者ではない聖人などいるわけがない、
そう言ってしまえばその通りだと思うが、
この『イディオッツ』をみていると、嘘もまた方便ではないが
この社会においては、ある程度の嘘があるからこそ、
それが潤滑油となって世の中が回っている、ということも同時に理解できるはずである。
そもそも、挑発を行う彼ら自身が矛盾をきたし
思うがままに振る舞うことで内部で軋轢も生むことになり
偽りの共同体では、仮の幸福をもたらすかもしれないが
欺瞞の中では、最終的には空中分解してしまうだけである。

役所関係の人物がやってきて
彼らに補助金の話を持ちかける際には、リーダー格のストファーは
最後興奮して「ファシスト!」と罵り、全裸で抵抗し癇癪を起こす様などを見ると
彼らとて、純粋すぎる「不適応者」なのだとわかってくる。
必ずしも賢者が愚者を演じているわけではないのだ。
その中で、カレンという一人の優しく物悲しそうな女性が、
レストランで彼らと出会い、思わず情を挟んだが故に集団に同行するはめになり、
最後は自分はこの『イディオッツ』にいた日々を幸せだとさえいい、
メンバーに感謝の意を述べる。
そして、ストファーが主張する、
家庭や職場で、本当に愚者たれるか、それがこの集団の趣旨だ、
という宣言の前に、自らの家庭でその意を遂行するに至るラストを迎える。

カレンは、自分の子供が死んで、その葬儀に出る勇気がなく、
2週間もの間、行方不明になっていたのである。
その間を『イディオッツ』集団で過ごしてきたわけだが、
現実と向き合えずに、家庭に居場所を失った彼女に対して
その家族の対応は実に冷ややかなものである。
そこで、彼女は意を決して障害者のふりをして
集団のポリシーを遂行して見せるが、
いみじくも亭主の平手打ちをくらってしまう。
これが家族としての答えなのだ。
同時にそれが彼ら『イディオッツ』に向けられた社会の目でもあるのだと思う。
行き場のない彼女は、付き添いのメンバーとその場をさらねばならない。
この後味の悪さはなんだろうか?
彼女を受け入れない家庭に対して?
現実を受け入れず愚行を正当化するからか?
それは受け止める側の問題だ。

それにしても、ラース・フォン・トリアーは改めてすごい監督だと思う。
この『イディオッツ』が創作のドキュメントであることはわかっているが
ドグマ95の精神に基づく、ドキュメンタリータッチの撮影法によって抉り出される
物事の本質を、時に不快なまでに生々しく、妥協なく暴きたてられるのだ。

この映画が投げかける問いは深くて重い。
映画を娯楽だと考えるようなタイプには間違ってもおすすめしない。
ラース・フォン・トリアー以外に、誰がこんな映画をとるだろうか?
誰が好んでこのような映画を求めるだろうか?
好き嫌いはあるだろうが、同情したり共感したりすることが問題ではない。
ときおり、自分がその映像に抱く不快感さえ、疑問がもたげたりするような映画であり、
それでいて、果たして、いったいなにが本当で、何が偽善かがわからなくなりはじめる。
まさに人を巻き添いにする映画である。
おそらくそうして迷い込んだ仮の場所が「イディオッツ」の存在意義なのだろう。
感情というものをどこまでも揺さぶられる映画である。
だが、答えはない。

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