市川崑『黒い十人の女』をめぐって

黒い十人の女 1961 市川崑
黒い十人の女 1961 市川崑

嫌味なく、闇をノワールに覆えるモダニズムとは?

日本人でありながら“directed by”が
実に嫌味なく板につく映画人はそういないと思う。
まして、一昔前の映画監督を思い浮かべても、
どちらかというと、職人肌、昔気質、巨匠といった響きが
似つかわしいタイプが圧倒的だ。
渋谷系と称されるミュージックムーブメントにおいて、
絶大な支持を受けるあの小西康陽に見出されずとも、
その映画のクオリティは約束されていたはずだ。
それこそ“昆コクトー”などと称された、モダニスト市川崑は
その最たる監督の一人ではないかと思うのだが、
その中でとびきりモダンな映画が『黒い十人の女』であることは
近年の再評価の波からも至極納得するところではある。
ただし、いざ、モダン、モダニスト、スタイリッシュのくくりで
この映画を語るとなると
なんとなくまんまと罠にかけられた気分になってくる。

人様の不倫話ほど、世間の関心を惹く話題もないというが、
それにしても、連日のようにくだならいゴシップが飛び交うのがこの国のマスメディア。
そんな事情を皮肉るかのように、
主人公が身を置くのは、テレビ業界と言う修羅場。
まさにうってつけの設定、というわけである。

船越英二扮するテレビディレクター風松吉は本妻のほか
これでもかこれでもかと多数の愛人を抱えている。
もっとも、この風という男がプレイボーイか否か、
という視点でもって観ても、
男の方からはどうにも魅力的というほどのオーラがさほど感じ取れない。
むしろ、どこか頼りなさげな雰囲気があって
つまりは、母性本能をくすぐるタイプという
ある種のステレオタイプに属するのか、ともあれモテるという男、
そこがいいのかもしれないのだとなんとなく理解する。

しかるに、この映画の主人公は、
必然的に女たち、ということになろう。
まずは、その女たちによる“内ゲバ”リンチから始まり、
途中では奇妙な共犯関係まで成立して、
いよいよもって、女たちが眩しいまでに躍動する。
女たちは、何かの拍子に、このプレイボーイもどきな男と
関係を結んだが、といって、
その関係性が一生のものなどと思っているようなストレートなタマは
土台、一人もいないのである。
唯一、宮城まり子演じる印刷業を営む三輪子だけは
終始風に優しく接し、そして最後はそれによって
自殺まで遂げてしまうほどの思いを抱えている女である。
また、山本富士子演じる本妻双葉と、
愛人関係を全て清算しようとして狂言殺人を企んだものの、
それが結局は失敗し、女たちに愛想を尽かされる羽目に落ちいって、
気息奄々とした状態で、岸恵子演じる愛人No.1新劇女優の市子に
最後は引き取られる形になって、この多重不倫が清算されるのだが・・・
男はなにやら去勢された反動で一気にしぼんでしまうのも情けない。
こうして見ると、やはり、不倫は男のものではない。
結局手のひらで転がしていたのは女側であり、
女たち自身が事の演出家に相応しいことをいやが応にも納得させられる。

さて、ここでまずタイトルの「黒い」という形容詞が、
文字通り、モノクロームの中映える事物、事象
そのもののことをいっているのか、
はたまた内面に渦巻くあざとい心理的な意味なのか、
考えて見れば、当然のごとく10人の女たちの
悲喜交々の感情が吐露されてゆく中で
風が精神的に追い込まれてゆく展開には道理がある。
マッチョで女タラシな嫌味なまでの色男が
取っ替え引っ替え女を踏み台にのし上がってゆく物語よりは、
そちらのほうが断然そそられる。

海岸で、10人の女に糾弾され海に放りこまれるのは
あくまでマゾヒスティックな男にとっての悪夢だが、
ここでの黒いシルエットのモダニズムこそが
『黒い十人の女』の真のかっこよさに通底している。
岸恵子のクールビューティーを見よ。
山本富士子の聡明なる悪女っぷりをはじめとして、
その他、岸田今日子、中村玉緒、宮城まり子と
色とりどりの個性的な女優陣が囲んで、
実にスリリングな愛憎劇を展開しているが、
最後の最後まで、軽さの美学に貫かれているところが
今日、再評価され人気も高い理由なのかもしれない。

そんな中で、紅一点ならぬ、風一点、
このなんともいえぬプレイモードもどきを演じきった
主人公船越英二の魅力を今こここで考えてみよう。
和製マストロヤンニ、そんな称号が物語るように、
一昔前の銀幕の二枚目は、野性味や凛々しさよりも
ひたすらにつかみどころなき飄々とした感を呈する役の多い二枚目である。
どちらかといえば、女優の引き立て役の感が強く、
業界側にたてば、使い勝手の良い二枚目だったのかもしれない。
しかし、そうした俳優は貴重である。
そのことは大映黄金期の諸作品を見れば誰もが納得するだろう。
何より『黒い十人の女』を傑作たらしめているのが
女を手玉にとる二枚目よりも
反対に何人もの女の手のひらで弄ばれても
それが実に清々しいまでの女々しさぶりを見事に演じきれる存在に価値がある。
よって、ちょっと二枚目かもしれない俳優船越英二の個性ここにあり、
と言うことに気付かされるのだ。

そんな名優の遺伝子を引く長男船越英一郎が
父の背を追って、新たに日の目をみることになったという
リメイクもので主役を張ることになったが
残念ながら未見ではある。
正直なところ食指がうごかないのだ。
何より心踊るような気持ちが全く湧いてこない。

まずは2002年の同じくドラマ版では
市川崑自身がセルフリメイクを手がけてはいるものの、
それとてさほど引っかかるほどのものではない。
その時の主役は小林薫。
確かに女心をくすぐる俳優ではあるものの、
10人もの女にちょっかいを出すといった
プレイボーイ像とは違う気がして萎えたものだ。
それが再び、テレビドラマでシリーズ化され
そこに本家二代目が、自らのかっての希望だったと言うが
テレビ側もまた二匹目のドジョウをとの目論見だったにせよ、
安易なトレンディドラマに組み込まれてしまうのは
わからないでもないにせよ、
その直後当の本人が、夫婦間のいざこざで、
理由はともあれ、タイミング悪く世間に醜態を晒してしまい、
あらぬ注目を浴びてしまうのだから、
返す返すもテレビ業界と言うものは残酷な現場と言う他ない。
所詮、イメージと言うものが大いに左右する現場なのだから、
私生活の汚点返上の場とはならないのが現実なようである。

ちなみに英一郎はかつて、
父英二に俳優志望を大反対されたそうである。
ある意味、父船越英二たる慧眼は
そのまま俳優としての確かさとも通底していたのかもしれない。 

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