アレハンドロ・ホドロフスキー『エル・トポ』をめぐって

エル・トポ 1971 アレハンドロ・ホドロフスキー
エル・トポ 1971 アレハンドロ・ホドロフスキー

教典か、狂言か? すべては恩讐のかなたに。

どんなショッキングな体験や光景を間のあたりしたとしても
時がたてばそれなりに慣れてゆくものだ。
人間とはそんなものだ。
若い時に衝撃を受けた映画で、そうした体験のひとつに
ホドロフスキーの『エル・トポ』体験がある。
カルトムービーの代名詞として、
1971年にニューヨークのミッドナイトシアターで公開され
ジョン・レノンをはじめ、寺山修司、ミック・ジャガー、
アンディ・ウォーホル、デニス・ホッパーにいたるまで、
この映画に熱狂した著名人たちによって賞賛された。
なかでもジョン・レノンにいたっては、配給権まで手にしているほどの熱狂ぶりだ。
よって、プロデューサーはビートルズのアラン・クラインということになっている。

日本では1986年、、東京国際ファンタスティック映画祭で
初めて公開されたらしいが、僕はまだその頃ホドロフスキーの存在をしらなかった。
僕が観たのはビデオ化された後だった。二十代の頃だ。
噂だけを頼りに、恐る恐る観たものだった・・・
初めて見たときの衝撃は、忘れられない。
正直、内容を理解し得たとは思えない。
しかし、時を経て今みかえしてみると、なんとなく漫画のようでもあり、
ところどころ笑えるところもあり、十分エンターテイメントとして成立している。
なによりもすでに親しみを見出してしまっているのだから
この慣れ、という感覚は、いろいな知見とともに
時代とともに、そうやって書き換えられていくのだろう。
『リアリティのダンス』『エンドレス・ポエトリー』『DUNE』など
ひととおりホドロフスキー映画の出所をさぐり、理解してきたものにとっては
やはりこの『エル・トポ』の中身は、ホドロフスキーそのものの思想、哲学が
形をかえ、言葉を変え、直感的に反映された作品であることに同意する。
その点は、いささかも矛盾がない点である。

しかし、初めて見たときの畏れににた思いは、映画そのものには当然、
ホドロフスキーに至ってはいったい何者かがわからず、
目を疑うほどに繰り出されるショッキングな映像の前に、
心臓をばくばくさせ、身体中を熱くさせながら、
さながら半分幻覚のなかにいるような、そんな興奮で臨んだものだった。
なにしろ、おびただしい血、そして人間や動物のおびただしい残酷シーン、
矮人やら手足のないダルマフリークスたち、
あるいは女装、フェティズム、同性愛・・・
アモラルかつグロテスクな光景が横行する、
まさに、常識やモラルは通用しない世界観であり、
三日で興行が打ち切られたのも納得できた。
おまけに、ストーリーは聖俗合わさって難解で、
意味そのものを求める人間には、いたって不寛容なまでに
徹底したホドロフスキーの主観に貫かれていた。

いわばキリスト教義への懐疑、そして改編はいうに及ばず
ここにはホドロフスキーが影響を受けた東洋思想、神秘主義が懐胎されている。
禅をはじめとして、グルジェフのスーフィズムなどが
美しくも妖しく、様々なメタファに満ちた映像詩として綴られてゆくのだ。
これはホドロフスキ版「夕日のガンマン』なのか、
あるいは『荒野のガンマン』のようなマカロニウエスタンかとさえ思うのだが
なにしろ、勧善懲悪には程遠い、創造主ホドロフスキー流のシュールな寓話である、
という結論に達するのがもっとも自然な流れなのだろう。

ちなみに、エルトポとは、モグラのことである。
「モグラは穴を掘って太陽を探し、 時に地上へたどり着くが、
太陽を見たとたん目は光を失う」という冒頭の詩句で始まるが
モグラとは、いうなれば愚かさの象徴の意味をもつが、
エル・トポは様々な体験を通じ、
ここではその愚かさを乗り越えてゆく神そのものなのである。

映画は前半「創世記」と後半「詩篇」にわかれている。
このあたりは聖書を意識してのことなのだろう。
砂漠で、怪傑ゾロを彷彿とさせる黒装束で
馬に乗りながら裸の幼い息子と旅をしているエル・トポが
そこで、息子に「もう7歳だから一人前だ、
クマさんのぬいぐるみと母親の写真を埋めろ」と命令する。
これは、『リアリティのダンス』『エンドレス・ポエトリー』の流れで知った、
ホドロフスキー自身の、厳格な父親への思いに対する答えだ。
ちなみに、この息子はブロンティス・ホドロフスキー、血を分けた実の息子だが
成長して、今度は『リアリティのダンス』で、若き日のアレハンドロを演じている。
『エンドレス・ポエトリー』の最後で、祖国チリを離れて
船でひとりフランスへ渡るホドロフスキーが、
祖国に残した妻のお腹に宿っていたのが、このブロンティスだったのだ。

そして、前半では出会った女に愛の証拠を求められ
四人の達人たちとの決闘に出る。
砂漠で出会う四人の達人がそれぞれ何を意味し、
どんな影響下の元にあるかは、ここで詳しくは書かないが
フリークスを従える盲目のヨガ行者をはじめ、
砂漠で毛皮を着てライオンを飼っているマザコンの早撃ちガンマン、
うさぎと音楽を愛する完全者である抜き撃ち達人。
こうした猛者を卑怯な手でもってゲームにように
ひとりひとり退けてゆくエル・トポだが
同時に虚無さえ感じ始めている。
最後に出会う達人にいたっては、武器が虫取り網で、
それで弾をうち返すといった仙人である。
しかも、この仙人は、決闘の無意味さを説くかのように、
エル・トポの銃で自殺を遂げてしまうのだ。
神にも見放され、恋人に裏切られ、そして自分自身の道標さえも失ってしまう。
こうして、エル・トポの思いは完全に無に帰されてしまうのだ。

後半には、フリークスの村で生まれ変わったエル・トポが、
神を崇められ体験してゆく物語だ。
まさに不条理とポエジー、清濁あわせもった集大成として描かれている、
かつて、自分が捨てた息子の復讐に遭う。
まさに、ホドロフスキー流の『恩讐の彼方に』が展開されるのだが、
しかし、復讐は成就されない。
つまり、全てが無だからだ。
そして、衝撃的なラストシーンが待ち構えるのだが、
杓子定規に説明するのは野暮というものである。
物語は、すでに破錠し、究極のポエジーとして締めくくられる。
おのおのが好きに解釈し、感じ取ればいいのだろう。
この濃密で、宇宙の真理に答えなどない、という風に。

さて、現実のホドロフスキーには四人のマスターがいた。
ひとりは、20世紀最大の神秘思想家といわれるアルメニアのグルジェフである。
つぎにマルクス主義とフロイトを通じて人道主義を求めたエーリヒ・フロム。
タロットの教義を教えてもらったという、エルンストのミューズレオノーラ・カリントン。
そして、もっともこの『エル・トポ』に反映されているというのが
メキシコで師事したという高田慧穣という日本人禅僧。
こうした様々な師との出会いを経て、培われ育まれてきた道のりが
さまざま形で昇華され、映像のなかに凝縮された真のカルトムービーである。

ひとを選ぶ作品であることは間違いなく、捉え方もひとそれぞれ違うだろう。
どの解釈が正しく、間違いだというのはない。
ただひとこといえるのは、この人生に虚無を感じ、
あるいは、常識やモラルだけ解決しようとする人間には
所詮、限界があるということだ。
ここには、同時に救いもある。
ただし、ホドロフスキーは師でも神でもないという前提において、
より自由になるための手引きとして、
この映画は、永遠の詩(エンドレスポエトリー)の旅人として
生まれ変わるものたちに向けたガイドになるのかもしれない。

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