勅使河原宏『砂の女』をめぐって

砂の女1964 勅使河原宏
砂の女1964 勅使河原宏

砂に溺れて

文学の映画化は失敗に終わるもの
などと、往往にして言われるところであるのだが、
中には、文学を凌ぐ作品もあるのだから、
ひとえに否定はすることはできない。
そもそもが人々を言語で魅了した世界を
なんとか視覚化したい欲望に抗えないのは当然である。

欲望は現実を凌駕する。
たとえば安部公房にしてその名を世界に知らしめることになった、
そして日本文学の金字塔でもある『砂の女』の映画版は、
まさに文学に勝るとも劣らない
稀に見る成功例のひとつだと言えるだろう。
もっとも、安部公房の原作自体が映像的であったこと、
安部公房自身が、ここでも脚本を書いており、
自身の文学性を損なうことなく、
文学の可視性を際立たせた上で
映画として成立させた稀な例とも言える。
自身がメガフォンを取らず、勅使河原宏の技量に委ねたところで、
まずは決定的な不幸は回避されたというべきか。
その意味で、安部公房は映像を私物化しない作家であり、
その時点で成功は確約されていたのかもしれない。

内容はもちろんのこと、この映画化にあたって、
何もかもが完璧な要素によって支えられている。
まず全編を覆う音楽には武満徹が、
これ以上ないまでに映像を際立たせる一つの音響を構築し、
スクリーンに溢れる現象ひとつひとつに
生き物のように命を与えんとする艶かしい臨場感を醸し出していく。

また、安部〜勅使河原コンビの映画化に欠かせない
山崎正夫らによる美術セットの見事さ。
一年をかけて選ばれたロケ地、静岡の浜岡砂丘に
トラック20台分の砂運び込んで建設されたセットは
非の打ち所がないほどに素晴らしい出来になっている。
おまけに、のっけから粟津潔による判をモチーフにした
ヒッチコックの『めまい』に匹敵するタイトルバックのかっこよさときたら・・・
とにかく、この作品にはあらゆる感覚器官にとって
クラクラさせられるだけの要素が満載なのである。

とはいえ、もっとも成功しているのは
キャスティングと言っていいかもしれない。
砂の女を演じる岸田今日子は、
まさにこれ以上のはまり役がないほど、
見事なまでの不条理な女を不気味に
かつ艶めかしく演じきっている。
岸田今日子=砂の女のイメージは、以後も強烈に刻印されたままだ。
古今東西、このエロティシズムの発露を体現できる女優が、
はたしているのだろうか?
この女に対峙する俳優はこの人しかいない、
そう思わせる岡田英次の存在感もまた、
岸田今日子に負けずとも劣らない。

都会を離れ砂漠に出向き
一人昆虫採集を趣味とする教師、仁木純平像は、
原作では「面長。眼と眼がよっていて鼻が低い」とされていることからも、
その点、2枚目の色男をも演じうる岡田英次とは
ややかけ離れたイメージのような気がしないでもないが
その岡田英次をあえて“砂の男”と銘打ってみたい理由がある。

それは、同じく文学の映像化である
マルグリット・デュラス脚本アラン・レネによる『二十四時間の情事』で
一期一会の恋を演じる岡田英次とエマニュエル・リヴァが
あたかも砂に紛うごとく原爆の熱に焼かれた肌のもつれでもって絡み合う
あのショッキングな冒頭の映像が目に焼き付いているからに他ならない。
よって、岡田英次は、それから5年後“砂の男”として、
映画史に燦然と名を刻むことになるのだ。
とりわけ、砂にまみれた男の体を洗いながすシーンの
エロティシズムに目が釘付けになった。
村の男たちが、この二人に投げかける
猥雑な視線よりも、より明確に官能性を歌い上げるシーンである。

砂を巡る不条理劇の主役は、
こうした生身の肉体をもつ二人だけではない。
この映画、あるいは小説のもつもう一人の主役こそは
「砂」そのものだと言っていい。
この映画が妖しいまでに美しいのは、
自然が育む砂の脅威そのものが視覚化されているからなのだ。
砂のエロスと呼んでしまいたくなるほど、
敏感なものなら、誰しもがこの蠱惑的な砂に魅了されてしまうだろう。

美しすぎる砂の風紋。
そして、蟻地獄を思わせる高さ9mの砂の壁。
男と女の肌に絡みつく砂の粒の艶かしさ。
何よりも、粗末な普請を侵食しようかという砂は
女の言葉を借りれば「腐る」のである。
砂が腐るなどということに苦笑するしかない男は
やがて、その砂の本質に屈服することになり、
ついには、事実においては失踪者に甘んじてしまうことになるのだ。
毛細管現象によって湧き出る水を溜水装置として活用すること知った男は
実はそこで希望のすり替えを行うに至るのである。

一度は監禁され、自由を奪われた男が
あたかも蟻地獄に囚われの身となったアリのように
なんとか脱走を試みたりはするが、
ついには自らその自由を放棄するのである。
それまで無意識に縛られていた束縛から解放され
男は砂とともに新たに自己を再生する意思をみせる。
砂の脅威の前で露わになった、
現代社会における自家撞着を一気に解体し
最後は名目上の死をもって清算する失踪者の物語でもある。
なんとも風刺に満ちた安部文学の真髄がここにある。

かように安部文学が描いてみせる前衛は
映像のマジックによって現前にたちあらわれる奇跡として
人間社会の虚構性をもあばきだしてしまう。
その蜃気楼のように儚い夢のごとく、
再び息づく艶かしさ、そしていかがわしさに埋没して
ひたすらうっとりとしてしまうのである。
そして、あわよくば、己自身の失踪さえをも
どこかで夢見てしまうのである。

さて、最後に、陳腐な結論を足してこう。
安部文学の傑作にして、日本文学のひとつの金字塔といっていいこの作品、
文学と映画、どちらに軍配をあげるのか?
そんな問いをいくら投げかけたとて、答えなど返ってくることはない。
梨の礫である。
少なくとも、砂の女に魅了されてしまった以上、
文字で追う快楽と、映像と戯れ、
その共存こそが快楽であり、
この不毛なる問いと睦みあうだけである。

主人公、仁木純平とおなじように
一度ハマった砂地獄からは永久に逃れようがないのだ。

砂の女:鈴木茂

いわずもがな、1975年に発表された日本のシティポップ黎明期における鈴木茂の名盤『BAND WAGON』からA面一曲目を飾る、その名もずばりの「砂の女」。
はっきりいって、安部公房の『砂の女』はもちろん、その不条理な世界観とは真逆の空気感。素晴らしいソングライティングに演奏、その圧倒的なグルーヴ感。今聞いても色褪せない輝きに満ちている。ベースがサンタナのダグ・ローチ、ドラムスがタワー・オブ・パワーのデヴィッド・ガリバルディ、キーボードにデイヴ・グルーシンの弟でもあるドン・グルーシンといったメンツに支えられた実にかっこいいナンバー。

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