アニエス・ヴァルダ『幸福』をめぐって

幸福 1965 アニエス・ヴァルダ
幸福 1965 アニエス・ヴァルダ

その幸福の裏側にあるもうひとつの顔

夏は、幸福で楽観的な記号に満ちている。
暑さという絶対が支配しているだけで、
それに無鉄砲に抗いさえしなければ、
ただ能天気にやりすごせる気がしてしまう。
だから、人々は休暇をもうけ、避暑地に繰り出したり、
水と戯れたりしながら、必然的に
快楽に溺れる機会が多くなるのかもしれない。

そんな幸福な夏に、
アニエス・ヴァルダのことをふと考え
そして彼女の作品がみたくなる瞬間が襲ってくる。
それは、彼女の作品にある一定の季節感が伴っているからだといえるのだが、
1965年のその名も『幸福』などは、
まさにまばゆい夏の光線に満ちた映画として
脳裏に焼き付いている作品である。

ヌーヴェル・ヴァーグの祖母と言われる彼女の映画は
いわゆる女性の視点に立った女性解放への眼差しが
鋭く反映されているが、
それが単にわかりやすいものではないだけのことである。
演出がまた独特である。
フェイドインアウトする画面に、黒ではなく
赤や黄色、紫といった鮮やかな原色が挟まれたり、
繋がれる愛し合う二人のカットが全然違うもの同士だったり、
あるいは効果的に使われるスローモション。
人間というものを冷徹に見つめる果ての
クールで哲学的な、ヴァルダならではのジャーナリスティックな視点が
魔法のようなポエジーによって描き出されていると言えようか。

さて、ストリート・アーティストJRとのコラボレーション作品
『顔ところどころ』を見て、改めて感じたことだが
この写真家上がりの作家である彼女の映像は
極めてフォトジェニックで、この『幸福』は
「私は印象派の絵画を前にした時の感動を呼び起こすような、そんな色彩映像を作りたかった」
とヴァルダ自身の言葉が示す通り
とりわけ美しい夏の気配と爽やかな家族の風景で
全篇に流れるモーツァルトの旋律とともに
まるで印象派の絵画のように実にうっとりするような新鮮な画が続く。
そのせいか、ややもすると、
そのタイトル通りの映画だと真に受けてしまうかもしれない。
もちろん、ヴァルダがそんな芸のない映画を撮るはずもない。
一見すると、まさに幸せな家族の風景が
夏空に浮かぶ雲のようにたおやかに流れてゆく。

が、事態は一変する。
夫は愛妻とは別の愛人ができてしまう。
まだ幼い子供抱えながら、幸せに揺らぎなく
平然と妻にも事情を告げる。
「新しい幸福がひとつふえただけなんだ」
こんな夫は無邪気というのか、あるいはバカなのか。
女と男の視点は自ずと違ってくるだろうが、
所詮愛するものにとって、この言葉ほど酷な話もないのである。

そのことが原因で、妻は死んだものとは描かれてはいない。
まして、自殺かどうかさえ曖昧だ。
池で偶然溺れてしまったのか、
はたまた、ショックのあまり入水してしまったのか。
(どうみても後者だと思ってしまうのだが)
兎にも角にも映画は沈黙を良しとする。
が、少なくとも夫には自責の念が全くない。
哀しみすらない。
マイナス感情のかけらも見あたらない。
そのことで、大多数の女性心理なら無神経な奴と
神経を逆なでされるような思いが芽生えるかもしれないが
当の夫はそれを幸福だと思い込んでいる、
言うなればオメデタイ“幸せな人間”なのである。

それゆえに、妻亡き後、そのまま新しい妻をめとり、
子供達もそれを自然なまま受け入れているようなエンディングとして描かれるのだ。
このなんともアイロニカルな光景は
まさにミヒャエル・ハネケの『ハッピーエンド』を彷彿とさせる。
幸福の裏側はかくも残酷だ。

が、ヴァルダはいみじくも女である。
果たしてここに女性的な視点が反映されているのだろうか?
つまりは、幸福とはなんなのか?
自分は幸福であったとしても、
果たしてパートナーは幸福なのか?
自分はただ心のまま、正直に生きているに過ぎないというが、
そのことで、よもや妻を傷つけているなどとは
夢にも思わない、そういう男だとしたら・・・
しかし、妻はそうではない、なかったのだ。
妻は決して、夫を責めたり、不幸を嘆くわけではない。
そこにあるのは死という現実でそれを提示することで、
幸福のあり方を提起したようにも思えてくる。
ただただ恐ろしいまでの放置映画なのだ。
これはちょっとした心理的ホラー要素のある映画なのである。

しかし、実際我々はそうした光景を日常でも
しばし目撃している。
もっとも、通常ならば、そんな綺麗な解決、
夢のような結末にはならないと思う。
ドロドロとしか感情が渦巻いて、修羅場が顔をのぞかせる。
極端なストーリーまで行くと到底鑑賞に耐えうる映画になりそうもない。
実際、この映画は後味がよろしくない。
幸福というタイトルに翻弄されながら、行き着く感情は不毛だ。

だからこそ、この映画の中に
ヴァルダの投げかけるクールな視線に震撼するのかもしれない。
そういう感性を映画を通して表現してきたのがヴァルダという人である。

ちなみに夫婦役を演じたジャン・クロード=ドルオー
そして、その妻クレール・ドルオーは、
その名の通り、二人は実生活のパートナーであり
おまけに子供達まで実の子供だいうから
ヴァルダという作家はこの恐ろしい幸福の美学を
いかにも自然に、凛としたひまわりのように
一切の感傷を排したクールな映像で描いて見せたかったのだろうか。

幸福の裏側に何が見えるだろう?
刹那か永遠か。
人はこの映画を通して、考えさせられる現実を
実生活の中からできうる限り排除しようと躍起になっているように思える。
今一度幸福というものを見つめ直してみようと思う。
夏の幸福は、額面通りに受け取れないのだ。

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