レスリー・チャンスタイル『欲望の翼』の場合

『欲望の翼』1992 王家衛
『欲望の翼』1992 王家衛

95分の思い出。サラヴァ、愛しき香港ブルースよ

脚のない鳥がいるらしい。脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、 そして生涯でただ一度地面に降りる。-それが最期の時。

(テネシー・ウィリアムズ「地獄のオルフェウス」より

2005年以降日本での上映権が消失していた幻の映画
ウォン・カーウァイ(王家衛)の『欲望の翼』がデジタルリマスター版で再上陸。
1992年に公開された当時に見て以来
久しぶりにその余韻に浸っている。

ザビア・クガート楽団のルンバに乗って、
密林を俯瞰すし流れるレトロモダンな映像。
雨の匂いと汗の匂いが入り混じった
香港という街の喧騒を縫って、
見知らぬ男と女をめぐる様々な思いが交差する
1960年代街に起ったクロニクルとしての、
この香港ブルースに胸がときめく。

香港映画といえば、
低級娯楽の剣劇映画ぐらいにしか思っていなかったイメージを
軽やかに払拭してくれた映画である。
美しいマギー・チャン、キュートなカリーナ・ラウ、
端正なアンディ・ラウ。
そしてクールなまでに男前なトニー・レオン・・・
その他六人もの香港スターがここに集結し、
おまけにクリストファー・ドイルの映像美と
ウィリアム・チョンの絢爛豪華な美術・衣装、
この黄金コンビのサポートを受けて
ウォン・カーウァイを国際的に知らしめた傑作が舞い降りた。
なんとも豪華で夢のような映画である。

時の流れは筋書きのないドラマを運んでくる。
あれからウォン・カーウァイは巨匠と呼ばれるまでになったが
反対にレスリー・チャンは遠く天空にひとり飛び立ってしまった。
その存在は別格だった。
眩しいまでの輝き、色気を持った俳優として
ウォン・カーウァイ映画には欠かせない俳優として
スクリーンを支えてきた重要な俳優だった。
そこにいるのが当たり前だと思っていた。

だった、と書かざるを得ない事情が起きたのは
この映画が公開されて11年後、2003年のことだ。
レスリーはうつ病を患っていたとされるが、
本当のところはどうなのか、誰にもわからない。
マンダリン・オリエンタル香港ホテルから、
身を投げてしまったのである。

レスリーよ、君はどこに飛び立とうしたのか?
ファンのみならず、華人社会そのものが衝撃を受けたというから、
いかに国民をあげて愛されていたかがうかがい知れる。
ここ日本でもこのウォン・カーウァイ作品を通して、
レスリー・チャンに魅了されたファンも多いはずだ。
日比谷公園には有志120名により
「レスリー・チャンの思い出ベンチ」が設置されている。

Leslie Cheung 1956,9,12 私達を魅了し続ける 愛すべき張國榮の音楽と映画、人生のすべてに 感謝を込めて Leslie Cheung Fans 有志120人

かくいう我がレスリー・チャンへの思いは
まさにこの『欲望の翼』から始まっているが
自分の中のイメージは白いタンクトップの似合う
スクリーンに脈打つこのスターは
ちょっとナルシスティックなおニイちゃんで
図らずもスゥイートでムーディーな男である。

タンクトップと言ってしまえば、
確かに格好のほどはつくとはいえ、
所詮はランニングシャツである。
一つ間違えると、目も当てられないほどの
野暮なイメージを与えてしまいかねないが、
マッチョでもなく、大男でもないレスリーは
その翼の陰に憂いを醸していたのが印象的だった。

高度成長期、日本での父親像はというと、
休日にはランニングにステテコ一丁でビールをのみながら
テレビでスポーツ観戦に熱狂するような、
そんなスタイルが定番だった気がするが、
いまそんなノスタルジアが通用する時代でもない。
だからというわけでもないが、レスリー・チャンの眩しさは
我々アジア人にとって、どこか遺伝子の中に組み込まれた
一つの憧憬が刷り込まれているかのように思えたのである。

そんな白のランニング姿がお似合いの
香港スターレスリー演じるヨディが
たった1分でいいから時計を見ろと
マギー・チャン演じるスーを口説くシーンから始まる。
なんとも小粋な始まり方である。
キャッチコピーにも使用された
「1960年4月16日3時1分前、君は僕といた。
この1分を忘れない。君とは“1分の友達”だ」
そうして二人の恋が始まってゆく。
これがウォン・カーウァイ流ロマンティシズムなのだ。

実の母親を知らず、養母に育てられたがゆえに
いびつな愛しか知らず
不器用な恋愛を繰り返すヨディの周りで
新たな恋と恋とが傷ついたり、傷つきあったりしながら
短針と長針のように
離れたりくっついたりを繰り返しあっている。
そんなめまぐるしい青春群像劇は
絶えず時間という輪のなかをぐるぐると回っていく。

実母のいるフィリピンへと流れ込んだヨディが
母には巡り会えず、事件に巻き込まれ
ギャングからの報復の銃弾に伏す頃、
唐突に現れるがトニー・レオン演じるギャンブラー。
一見、なんの脈略もない登場で、
不意打ちを食らうラストシーンだが、
冒頭での1分間が見知らぬ男女の恋の手ほどきをしたように、
ウォン・カーウァイは時間という概念の中に
究極のロマンを盛り込む作家なのだ。

当時のインタビュー記事には、そんなことが書かれていた。
「私は“人間が生きていくことの最大の報酬は
思い出を持てるということだ”と思っています」
時間の長さなど問題ではない。
そこで起きた一瞬の事象が記憶となって残る、
そのことにこだわりを持つことに意味のある映画なのだろう。
『欲望の翼』を見たわずか95分の時間の暗闇の思い出は
今もこうして息づいているのだ。

いみじくも、この映画が公開された七年先に
香港はイギリスから中華人民共和国へ
主権の返還を余儀なくされていた頃で、
落ち着かない空気の波動のなかに
産み落とされたこの映画の主人公たちの世代が、
母国の運命の推移を見守りながら、
ヨディの悲哀に満ちた運命を
重ね合わせ見ていたのかもしれない。

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