ヘルマン・ヘッセのこと

Hermann Hesse 1877-1962
Hermann Hesse 1877-1962

心のチャカに背を向け釈迦の背を追う、あの頃我が師シッダールタよ

先日、実家にもどったとき、ふと昔の本棚を眺めていたら、
ヘッセの文庫本が目にとびこんできて
それをひょいと手にとってパラパラ眺めて
そのままカバンにいれてもどってきた。
『知と愛』という作品で、とても好きな作品だったのだが、
もうかれこれ三十年以上も前の記憶で、随分と曖昧になっていた。
神に仕える、精神世界に生きる学者ナルチスと正反対の生き方を選ぶゴルトムント。
精神世界と肉体の官能性の間に揺れ、芸術の道へと進んだ主人公の姿に
若い頃の自分は非常に感化されていたっけな・・・
懐かしい思い出だ。

十代のとき、シュルレアリスムや幻想文学の洗練を浴びていない頃
文学的な影響は、ヘッセと太宰治が中心だったなあ、なんて思い返したりしながら
ぼんやり活字を眺めていたのだがやはり、それはいまでも変わりなく
ぼくの心をとらえるものがそこにはあるのがわかった。
むしろ、回帰しているところもある。

ヘッセの文学にはたいていの場合
内的で自己に忠実に生きようとする主人公が出てくる。
一方の太宰文学は、どちらかというと、
どうしようもない自堕落な人間が多い。
とはいえ、本当はココロに傷を持っている不器用な人間ばかりである。
一見、交わらないようで、
実はとても近いような気がするのだが、そこは錯覚かもしれない。
これら書物との触れ合いが縁なのか、
随分人生回り道をしたような気がする。
わざと難しい方へ向かって歩いていたような気がする。
それでもヘッセも太宰も、どちらも今も変わりなく琴線にふれてくる。
それは今のぼくのもとをつくったといえるからだ、と思う。

自分は、別に真面目一本な人間でもないし、
といってけして自堕落な人間でもなく
性格は陽気でもなければ、ことさら陰気でもない人間のつもりだが
どちらかというと、真面目な部類には入るのかもしれない。

他人を見て、陽気か陰気かなんて、実のところはよくわからない。
それはその時々の環境が影響を及ぼすであろうし
人間と言うのは、どちらかに割り切れるもんでもない。
気が許せば陽気になれるし、
反対にそうでなければ、やはり陰湿な方へと走る。
まるで、ある種の昆虫の生態のようでもある。

話がそれたが、人間としてはヘッセ文学におけるような主人公たちに共感し
太宰文学の、いわゆる太宰的な主人公たちは、
自分の内面下に潜伏しているものとどこかで合致するような気がして、
ほっとするというかなんというか・・・
当時十代の頃はそんな世界に浸って救われていた。

それから年月を経て、そんな影響下からは次第に離れてゆき、
他にも影響を受けるような作家や、
あまたの表現の慰みに出会ってきたけれど
最近また、そんな彼等にふれてみて、
十代とは違った意味で共感を覚え始めている。

次に『シッダールタ』を読み直したのだが、
シッダールタ(出家前の釈尊)はけして師の教え元で瞑想にふけり
そのまま解脱の道へと向かう模範僧ではなく
むしろ、そこに背を向け、
というか本当の真理を求めるが故に
あえて世俗の道へと降りていったのである。
結局は、世俗の水にもなじめないわけだが、
かといって友ゴーヴィンダのように
ひたすら修行をつんで、悟りの道を求めることもしない。
川の渡し守にならいて、その流れからすべてを学ぶのである。

ヘッセの主人公たちは、いうまでもなく
ヘッセ自身の分身であり、投影であるけれど、
けして高尚な人間というのではなく、
弱さをもちながらも俗に漬かり、まみれ
常に自分の場所を求めつづける、そんな姿に惹かれる。
太宰の世界は、その弱さに身を委ねつづけることの、
もののあわれが心をうつこともあるが
かといって、その道を目指そうものなら、
やはりどんどんと底に向かって沈んでゆく危うさがある気がして、
やはり、自分の生きる道ではない気がする。
現実的ではないのだろう。

ヘッセと言う人は求道者であったと同時にアウトサイダーだった。
まさに『荒野の狼』ハリー・ハラーそのもの、と言っていいだろう。
金を借りてまで密かにピストルを手に入れ、
自殺も辞さない覚悟を持っているような人だった。
けれども映画作家ジャン・ユスターシュのように実際に引き金を引きはしなかった。
太宰のように、女を道連れにして背神行為に身を任せはしなかった。

そう、今の僕が僕でいられるのはそんなヘッセのお導きのおかげだ。
10代の多感な年頃に『シッダールタ』の洗礼を浴びていたから、
こうして図太くいきてこられたんだと、そう思っているのだ。
たしか、十代の頃読んだのも高橋健二訳だったと思う。
やはり自分の中で、ヘッセはこの人のものが一番いいと思う。
確か、清志郎もそんなことを言ってた気がする。
一見、不真面目そうな人ほど、内面は真面目に物事を考えているもんだよ。
昔仲の良かった精神年齢の高い友達がふと漏らした言葉を今も覚えている。

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