小沼勝『少女地獄』をめぐって

少女地獄 1977 日活 小沼勝
少女地獄 1977 日活 小沼勝

地獄にて戯れる、少女たちの復讐のエロス

中高と6年にもわたり、ひたすら
むさ苦しい男子だけの学校に通っていたから
思春期の男の子のことはそれなりにわかるが
これが女子ともなると、想像の域を超えない。

一般には“箸が転げてもオカシイ年頃”、なんていう
随分適当な言い方があるけれど、
まさにそんな感じを浮かべるぐらいしか能がない。
実際、三人寄ればなんとやらで
賑やかなことこの上ない光景ならありふれているが
リアルな女学生の実情となると
皆目見当がつかなくなってくる。
それぐらいギャップがあるのだ。

だから、自分の記憶と想像と他人からの噂話などで
うまくイメージをつむぎながら
少女から大人の女へと変貌を遂げるそんな瞬間を
秘めやかに想像してみよう。
瞬間なんてものはないのかもしれないが、
確実に変わっていく、いわば黄昏時のようなものがある。
まさに、昼でもない、夜でもない時の怪しさ。
そして狂気を孕んだ狂喜な世界。
そんなことが展開されるのが
小沼勝『夢野久作の 少女地獄』という映画である。
(現在は原作通り『火星の女』というタイトルに変わっているが、
オリジナルを尊重しておく)

“少女地獄”という響きが現代でも心を捉えるのか
度々アニメやドラマの題材になっていてびっくりするが
夢野久作〜小沼勝のラインに受けたような
どうもそんな関心までは起きない。
やはり、随分と解釈の差を感じるのだ。
とはいうものの、今、夢野久作〜小沼勝を話題にしたところで
一体どの層がどんな風に食いつくのかなんて
全く想像ができないのだが。

もう随分と前にみて、
自分の好きな世界だという認識だけは
当時から持っていた。
夢野久作の原作が3つの短編で構成された
少女の虚言癖のようなことを描いているのだが、
そのうち一つの話『火星の女』の映画化で、
基本的な話の流れには沿ってはいるが
果たして、どこまでが現実か、あるいは妄想か
実のところ、よくわからない。
そもそもこれは少女にとっての地獄なのか、
あるいは少女が大人に見せつける地獄なのか?
そのあたりのことは判然とはしない。
にもかかわらず、この映画が
長年にわたって心の片隅に消えず離れず残っている。

記憶がところどころ欠落して
中身がうまく追いつかないところだが、
映画自体面白かったこと、
主役の少女、小沼組常連の小川亜佐美という女優が
当時なんとなく好きだったこと、
そもそも小沼勝という人が
自分の感性に妙にツボにはまる監督だったことなどが
関心の火を保ってきた理由なんだと思う。

それを今さら見直してみると、ちょっと驚く。
そもそも少女というには籐(とう)が立っている女たちである。
その辺りは、あえて突っ込まない。
特に片方の飛鳥裕子などは色気がハンパない。
この映画が、女の復讐劇であるためには
ある程度そうした色気は必須だったのかもしれない。
だが、記憶していた諸々の断片から漏れていたこととして
実は十二分にホラー映画的資質をも持ち合わせていたことだ。
なるほど、Jホラーの巨匠というべき中田秀夫が
崇拝する監督だけのことはあると思った。
(ちなみに2000年には小沼作品のドキュメンタリー映画
『サディスティック&マゾヒスティック』を撮影している)

そうはいっても出どころが日活ロマンポルノである以上、
10分に1度の濡れ場、すなわちそれ相応の男女の絡みがなければならない。
もちろん、あからさまな裸体が何度も露出するし
男と女の睦ごとも、テーマに絡んで随所に組込まれている。
しかし、それらは官能性というよりは
男と女の因果を象徴するための小道具のような描き方であり、
男に対する復讐というよりは
嘘や虚構で塗り固めらた世間や通念に対する
アイロニーとして露骨に向けられているような気がする。
神の名を語りながら、不正を繰り返し
色ごとにうつつを抜かしながら
挙句に生徒を孕ませる不埒な校長が
この少女たちの恰好の標的だ。

走ることと食べることしか興味がないと揶揄され
“火星さん”と陰口を叩かれる女学生甘川歌江は
仲のいい令嬢殿宮アイ子とは
構内で噂をたてられながら、怪しい関係を結んでいる。
それをレズビアンといって片付けていいものかは
みた人間の感性に委ねられるところだが
それはあくまでも事象に過ぎない。

殿宮アイ子が、実はその不埒な校長が
アイ子の母親に孕ませた実の娘で
まんまと罠にかかった歌江が孕まされた子は
腹違いの子ということになる。
そうした不思議な絆が徐々に明らかになっていくと
俄然物語的に面白くなってくる。
ここから子を堕胎させられた歌江の復讐劇が始まるが
そこからがまた一段と面白い。
B級ホラーっぷりが随所に現れる。

最初にホラー要素のある映画と書いたが
実のところ、怖さは全くと言ってない。
復讐劇としての情念を感じるが
むしろ小沼勝の手法は、どこかシュールで
どことなく笑いが起きるようなそんな演出を忍ばせてくる。

なので、サスペンスでもない。
この不思議な感性が日活で撮られていたことに
改めてすごいと感心するのだ。

自殺に見せかけ校舎を全焼させ、
自ら黒焦げになるという恐ろしい復讐。
葬儀での遺影写真がやたら眩しいばかりの笑顔だったり、
棺に入れられた黒こげ死体の脳髄をこっそり採集し
復讐を込めて校長に飲ませたり、
その校長の元へ手紙とともに届けられるネズミの死骸の尻尾には
赤いリボンが結ばれていたりする。

二人の女学生の戯れにこの作品のイコニカルなオブジェ
白い大きな風船が使われる。
ラストシーンは夢か幻想か、
どこでもないノーマンズランドに
白装束で現れた二人は手に手を取って
再び狂った幻影として焼身を試みたあとに
その白い風船が二人の昇華した魂のように空を舞う。
校長はそれをみて改めて狂い出すと言ったドラマが
果たしてこれがロマンポルノなのか?
というようなくだらない議論をしたいわけでもない。

これを悪趣味のファンタジーと呼ぶべきか
それともホラーコメディの類と呼ぶべきか。
夢野久作ファンの失望を買ったというが、
自分は、むしろその果敢な挑戦を好意的にみた口である。
何れにしても自分は幾つになっても
こうしたB級の映画に惹かれてしまうのだ。
悪趣味の極致といえば
むしろ『箱の中の女 処女いけにえ』の方が
よっぽどその悪名が高いが、それはそれで不快な思い以上に、
映画としての熱情に溢れた鬼才小沼勝の情念を
スクリーン越しに真にそのエネルギーを感じたものだった。
これに関してはまた別の機会にでも書くとしよう。
再び小沼勝熱が帯びてきたのを身体の芯で感じる体験であった。

ちなみに、ロマンポルノではないが
石井聰互(改め現岳龍)による『夢の銀河』で
同じく夢野久作原作の『少女地獄』から
その中の一編『殺人リレー』を取り上げている。
この小沼版とは全く方向性の違うアプローチで
夢野久作ワールドを映像化しているが、そちらと抱き合わせてみることで
さらにこの『少女地獄』のもつ不思議なエロティシズムの世界に
触れることになるであろう。
そもそも、映画と文学が同じものであるはずはないし、
その必要は全くないのだから。

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