太宰治のこと

太宰治 1909-1948
太宰治 1909-1948

だざい文体

太宰治の「ヴィヨンの妻」という短編が昔っから好きなのですが、
その割には、十代のころの曖昧な記憶しか残っておらず、
ふと寂しい思いから、もう一度読み返してみたくなり、
借りてこうようと図書館へいったのはいいのですが、
なにやら眠っていた悪い癖で、本をこそっと盗んできてしまったのです。
たかが一冊の本を盗み出すだけで、こうも手に汗握るものですかね。
相変わらず、お前は肝っ玉が小さいなあ。
いやいや、いい大人が、万引きならぬ図書館の本を無断で持ち出すなんて・・・

とかなんとかいうのは、真っ赤なウソですけれど、
なんで、そんなウソをわざわざつくのかね、といわれても、
さあ、単なる思いつきでしょうか、というのが関の山で、
なにも人をからかおうという気持ちからではないのです。
あえていうとなると、このタイトルのヴィヨンという人は、
フランス中世紀の悪党詩人フランソワ・ヴィヨンのことなのでして、
日本でいうと、死刑基準にもなった永山則夫のような人で、
生活の困難さから盗みを働き、人を殺めてしまって、
ギロチンで首をちょん切り落とされてしまったという、
呪われた運命を生きた人だからで、
ぼくはいわゆるフランス文学のピカレスク(悪漢小説)の系譜が好きだったもので、
そのイメージで勢いあまって、小悪党の気分で書いてしまったのか、
それとも、太宰的なあの世界に身を投じてしまいたかったというだけの、
単純なばかげた心情からにすぎないことなのです。

うーむ、これだこれだ、懐かしいっ。
とつぶやきながら一気に読みふけってしまった。
この「ヴィヨンの妻」は後期太宰の傑作短編だと思っているけれど、
やはり、あの文体はいいですねえ、罪作りな文体だ。
表情がとろりとしていて、磨き上げられた床をきゅっきゅっと靴で鳴らすような文体、
ずっ、ずっ、とソバをすすりて悦にいっていたかと思うと、
急に周りの目を気にし始めるような、そんな文体・・・
ちょっと意味がわかりませんか。ウフフ。
太宰の得意とする女人になりすましての、あの虚構性、うさんくささ。
そこはかと流れる生暖かい虚無と哀愁のロマンティシズム。
そりゃあ、硬派な三島由紀夫大先生から蔑視されても文句はいえませんが、
まさに本程度のものをこっそり盗みだしたくなる、
そんな気分にさせてくれるのが、
ぼくにとっての永遠の治ちゃんの魅力なんだと思います。

悪党といっても、けして大それたことのひとつもできず、
ただ酒を食らい、女にうつつをぬかしながら、
どこかめそめそするところがあって、
そこがかえって女の気を惹いてしまう、罪な男。
ダンディズムでもプレイボーイでもなく、
いわゆるダメ男の原型がありとはいえ、一応詩などを嗜みながら、
いっぱしの情緒と知性を持ち合わせ、
世の中の、はしっこを渡り歩きながら、
なんとか生きながらえる振りのうまいあの珠のような生活臭が、
わたくしのような夢見る頽廃もどきには、いまもなおぐっとくるわけですねえ。

「ヴィヨンの妻」をナレートするのは妻ですが、
その夫、大谷という詩人は、「四国のある殿様の別家の、大谷男爵の次男」で、
二十一で石川啄木をしのぐ天才ともてはやされる「日本一の詩人」で、
独語仏語に堪能な帝大出の“まるで神様みたいな人”であるにもかかわらず、
飲み屋に貧乏神のごとく入り浸って、
ただ酒を食らい、借金を踏み倒し、
家にはほとんど帰らず、妻や子を顧みるでもない、
ちょっと頭の弱い坊やを抱える妻は、
病院につれてゆく金さえ工面出来ず、
ついには、夫の借金のかたに、自らその代金を肩代わりしようと飲み屋ではたらくに至りて、
それでも、夫を責めるでもなく、
「生きていさえすればいいのよ」と健気にいってのける。

この短編の良さは、ダメな夫ではあるのだけれど、
結局世の中を見渡しても、犯罪人ばかりじゃないの、
酒を飲むのはきっと気の弱さのせいだし、
いまじゃけして流行らないダメ男の美学を、
妻/女という懐を借りて許容する母性が、
その弱さを抱え持つ自責の念を呑み込んで、
ある種の諧謔として、どこか冷めた風情でもって描いているところだと思うのであります。

その昔、まだ何も知らない思春期のころには、
なぜか、それがかっこいいことのように、
勝手に自分のなかでつくりあげておりました。
いまだと現実というものが、ある程度見渡せるので、
そんな生活はできっこないし、
自分はむしろ真面目に生きるしかできないものなあ、なんて思う。
というか、これが文学の世界でなくしてなんなのだ、とさえ思うのであります。

やはり作家というのは恐ろしい人種だと改めて思います。

PS
そういえば、生まれてこの方万引きなんてしたことがないですね。
ただ小学生低学年のころ、どういう心境だったのか、
働きに出た母親の財布から、数千円ほどのお金を抜き取った、
というようなことをしてしまった記憶があるのです。
それも、自分のモノを買うためじゃなくて、
友達にお菓子やら飲み物を買い与えるための資金として。
あれは何だったんだろうか。
人気ものになりたかったわけでも、
支配したかったわけでもなく、
ただ寂しさを紛らわらそうとした、子供ながらの浅知恵だったのでしょうか。
罪の意識など、どこにもありませんでした。
あのままいっていれば、フランソワ・ヴィヨンのように、
首をちょん切られるような運命を辿っていたのかもしれませんね。
神様に感謝する今日この頃のぼくです。

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