林芙美子のこと

林芙美子 1903-1951
林芙美子 1903-1951

他人の不幸は蜜の味

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。

『放浪記』林芙美子

それまで幻想文学や、不条理文学ばかりに傾倒していた自分が
リアリズムに根差した林芙美子の小説を読むようになったのは
映画『放浪記』をみて、いたく面白かったからで
林芙美子との出会いを運んできたのは
間違いなく成瀬巳喜男という映画作家である。

そこから、同時に成瀬巳喜男の映画にはまっていくことになるのだが
成瀬による林芙美子ものはけっこうあって
『放浪記』の他にも『めし』『稲妻』『妻』『晩菊』
そして『浮雲』、この錚々たる名作たちを通して
林芙美子への情愛が深まったのはいうまでもない。
とはいえ、小説と映画は微妙に違う。
いや、かなりちがうと言っていい。

それゆえ、そこを翻訳する媒介が必要になってくる。
映画でいえば、脚本家の仕事ということになる。
その意味で林芙美子〜水木洋子〜成瀬巳喜男ラインは
実に最強だと思う。
中でも『浮雲』は日本映画史の中でも
三本の指に入る傑作だと思う。

林芙美子の書く話ははっきり言って貧乏くさく“赤貧”感が鼻につく。
男も女もグズグズで、ある意味不幸になるのもやむを得ない性格の持ち主ばかりである。

男からすれば、めんどくさい女になろうし
女からすれば、そういうところは男にわからないのよ
ってなことになるのかもしれない。
だから、ポジティブ思考の人間には
生理的に受け入れにくい感性なのかもしれない。

かくいう自分は、極めてポジティブであろうとしてはいるが
やはりこうしたグズグズ感が本質的に好きなんだと思う。
実生活では確かに関わりたくはないが
やはり、ポジティブ思考な物語よりは
ネガティブで、かつ暗くドロドロしている方が
物語としては面白い気がする。
だからこそ林芙美子と成瀬巳喜男との相性が
すこぶるよかったんだと思う。

何しろ、ヤルセナキ男と称され主演女優の高峰さんですら
「酸素ボンベをしょってるようなもの」という
いわば面白みのない男だと思われていたぐらいだから
ポジティブな要素のいたって少ない作家であることは間違いない。
その映画を見れば一目瞭然で
黒澤のようにすかっと胸をなで下ろす作品を見た記憶はないし、
小津安二郎の空気感のような優雅さは皆無である。

それゆえに、大概の場合は
なんとなく嫌な気持ちになる日常が舞台となっていることからも
林芙美子という作家が背負う資質は
映画としては格好の素材だったのには納得する。
そもそも美男美女の人が羨むほどのカップルの話に
そんなに興味はわかないものだ。
悲惨な環境を行きている人間にこそ
人は怖いもの見たさで関心を寄せるのだ。

他人の不幸は蜜の味、というべきか。
『放浪記』では、そのあたりのことが自叙伝として綴られている。
もっとも、それゆえに文学者としての成功を納めたのだから、
ポジティブもネガティブもない話である。

高峰秀子はこの林芙美子を演じるに当たって
わざとブサイクにメイクを施してもらったという。
じゃなきゃ次々に男に捨てられるはずもないのだと。
しごく説得力がある。

顔はともかく、どことなく嫌な一面があるからこそ
出会う男たちは自分の元を去ってゆく。
そういう意味で、この大女優が見事手の内に入れている
この『放浪記』が大好きな作品である。

しかし、よくよく見てみれば
カフェで阿波踊りをしたり、
自分が文壇デビューできるのなら、と
ライバルを蹴落とすぐらいに積極的に投稿したり
そこは随分前向きというか
やはりひとかどの文学者たるエピソードはうかがい知れる。

やはり、林芙美子が只者ではないのは
赤貧話がちゃんとカネになることを
本能的に熟知していたからだろう。

ネガティブな人間とは付き合いたくはないが
ネガティブな話は案外心地よかったりするわけだ。
そして何よりも哀愁を感じる。

林芙美子という作家の良さは
そんなところにあるような気がしている。

二階堂和美 : 女はつらいよ

男には女に人の辛さはわからないけど、林芙美子の辛さはなんとなくわかる。で、この二階堂和美の「女はつらいよ」に行き着くわけだけど、異性のつらさっていうのは、結局その相手をどれだけ寄り添えるかだったり、ただ横にいて、単純に聞き役になれるかってぐらいのもの、そんなとこなんじゃないかなって思うわけで。その意味で、この曲を聴いている。そしてしみじみいいなあと思う今日この頃。

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