レーモン・クノーのこと1

Raymond Queneau
Raymond Queneau

文体くの一、ウリポ言葉に痒ぃ〜言葉

街で偶然だれかと知り合ったとして、
もし、なんかの拍子でレーモン・クノーの話になったら、
それだけで、ぼくは吹いてしまいますね。

プッ。

レーモン・クノーを知っているというだけで、
それぐらい可笑しいことなんだと、
ぼくは声を大にしていいたいだけです。

ぐふっ。

もちろん、クノーを馬鹿にしているつもりなんて、
つるっぱげ、毛頭ないんです。
むしろ、大好きな作家だからこそ、
なおさら、うれしさの裏返しを、
そう表現してしまうだけのことでね。

えへっ。

ルイ・マルの『地下鉄のザジ』を書いた人でしょ?
そういわれたら、そうそう。
ザジみたいに笑うしかないでしょう?
ゲラゲラ。
処女作『はまむぎ』とか『イカロスの飛行』とか、
『オディール』とか、面白い小説あります。
小説だったら読んだことがありますよ、
なんていわれたら、笑いがひとまずおさまって、
すぐに微笑みに変わるでしょう。

うふふ。

その上『青い花』すら読んでますよ
なんていわれたら、
そりやもう絶句するしかないでしょうね。

えっ。

なんたって、ぼくは
長年絶版になっていたこの幻の本を求めて
大学の図書館においてあることを確認して
構内広しといえ、
ただひとり狂喜乱舞していたぐらいですからねえ。

わおっ。

いまはレーモン・クノー・コレクションなんかが
出回っている良い時代だから、
そんな特別に驚きませんがね。
いつまでも安心はしていられませんよ。
世の中に用なしの烙印を押されたら
あっというまに消えちまう時代ですからね。

ふぅ〜

まあ、そしたらそしたで
過去にもどって、
クノーさんをひっぱり出せばいいだけの話。
なんたって、『青い花』というのは
今からミライへ向かっていく自分と
過去から今に向かってやってくる自分が、
ある日ばったり出会う話なんですからね。

ほぅ。

さて、ザズー族を生んで
『うたかたの日々』が熱狂的に迎えられた
ボリス・ヴィアンならいざ知らず、
クノーの小説がちまたで大人気、
なんてことは夢のようなことですから。
なんたって、シュルレアリストなんて
軽く一蹴しちゃうほどはちゃめちゃで、
クノーの上にはジャリやルーセルがいて、
そして、ヴィアンがいるそんなパタフィジックな文学道。
実に愉快な同胞たちです。

ぼくはこのクノーを
もっともシュルレアリストに近くて
もっともシュルレアリストから遠い作家だと考えているのです。
それを要約して、パタフィジックというのですが、
クノーという人は、パタフィジックから始まり
シュルレアリスムをまたぎ、ヌヴォーロマンを横目に
潜在的文学工房ウリポなんてことを
文学で展開しようとしたんです。

ウリポをひとことでいうと、
言語遊戯的な文学とでもいうんでしょうか。
ぼくの大好きなテーマ、言葉の遊び。
実はぼくがもっとも影響を受けたのがこのウリポでして・・・
そんなことはどうでもいいか。

ごほっ。

フランスでは、あまりの待遇の悪さに業を煮やした仲間が
クノーのためだけの文学賞「ドゥ・マゴ」賞が創設したぐらい、
みんなクノーをかっていた時代があったのですから。
だから、この日本で、Bunkamuraドゥマゴ文学賞、
なんてのをもらった町田康なんかは、
遠いながらも親戚筋に当たるってことになりますか。
そこからもクノーってひとが偲べるっていうものでしょう。

てへっ。

さて、ここで、長々
小難しい顔で、クノー論なんかをやろうだなんて
そんなことは微塵も考えちゃいないのであって、
では、ということで、
やっぱりクノーの功績というか
文学的価値ぐらいはきちんと記しておきたい、
そう考えるのは当然のことで、
ならばと浮かんだのは、『文体練習』なる本。

ふむ。

バスで見かけた同じ人物を
二時間後また別の場所で見かける、
というだけの単純な話
」を、
99もの文体で描くという、
馬鹿げてるんだか、
ふざけてんだか、
真面目なんだか、
まあ、でもやっぱり面白いこと、
この上ない本であるのは間違いなくって、
それをきっかけに、
ひとりでもレーモン・クノーという作家について
関心をもってもらいたいな、
なんて考えているわけなのです。

この本の価値は、
自分のような人間がわざわざ取り上げなくても、
いろんな国で翻訳が出ていることからも
あきらかなのだけれど、
99掛ける翻訳された数だけ文体がある、
っていうことを想像するだけで、
“トンデモ本”でもあるわけで….
いやあ、素晴らしいったりゃありゃしない。

ブラボー!

クノーの楽しさが、少しでも伝わるといいな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です