小津安二郎『浮草』をめぐって

浮草 1959 小津安二郎
浮草 1959 小津安二郎

人生は旅。つあ〜ものどもが夢の跡。

ウキクサ、その響き通りの水中の浮遊植物は
俳句では、夏の季語として知られるように、
春にぷっかりと現れ、秋にはさらりと消え、
その後水底でもごもごと越冬するといわれている。
昔から、浮草稼業とはよくいったもので、
よりどころなく、一つの場所に落ち着かない職業にたとえられるが、
そんなタイトルの映画がある。
小津安二郎、1959年の『浮草』である。
1928年のアメリカのジョージ・フィッツモーリスによる
『煩悩(The Barker)』を下敷きに、
まず34年、サイレント版で、坂本武が演じる旅芸人
人情ベースの「喜八もの」シリーズとして『浮草物語』が撮られ、
これはそのセルフ・リメイク版である。

ここでは、しがない旅一座の座長が、昔、子をはらませた女のいる港町へ
12年ぶりで興行にやってきて、
その地で情愛と哀愁にみちた人情話がくりひろげられる。
まさに、このウキクサ一行は、その夏の興業とともに解散し、
ちりぢりになって終わるまでが淡々と描かれる。

この映画、なんといっても、アグファカラーの美しさ
夏の原風景のあざやかさ、目にまぶしい出来がすでに芸術品である。
それまで、カラー作品には、一歩遅れぎみだった小津だが
前作『彼岸花』に続き、色彩のマジックを発揮している。
芸術的なカメラワークには、いつもの小津組の厚田雄春ではなく、
日本が誇る宮川一夫が担当したことも強く影響しているといえる。

海をバックに、白い灯台に対比するかのように置かれた黒いビール瓶のオープニングショット。
のっけから、まさに小津安二郎ならではの世界全開である。
そのほかにも、ポストやうちわ、灰皿と、
赤づくしの小道具が巧妙にちりばめられ、
目の保養に粋な着物をまとった艶やかに映える女たち。
いつものように、絶妙なタイミングで枕ショットをいくつも挟みこみ、
屈指の名場面、雁治郎と京マチ子の、土砂降りの中の掛け合い、
「このアホ!」と亭主が叫べば、「あんたこそアホやないか!」と返す女。
「金輪際、敷居を跨いだら承知せんぞ」とおどしをかけるものの、
そこには、男と女の修羅場でありがちな、どろどろした嫌みさ加減はない。
この往来を挟んでの痴話げんかシーンなど、
随所に見所の垣間見ることができる作品になっている。

舞台になった港町は、日本を代表する景勝地、伊勢志摩の大王町の波切。
もともと小津は三重にゆかりがあり、
9歳の時、父親の故郷松坂で過ごしたという経緯がある。
日本映画が黄金期だったころ、この風光明媚な志摩の漁港では
いくつもの映画のロケ地でにぎわったという。
小津自身、大のお気に入りの場所であり、
「東洋のニース」と絶賛し、そのフィルモグラフィにおいて
唯一、三重ロケがこの作品で敢行された。

たしかに、小津演出が随所に冴え渡るまぎれもない作品ではあるものの、
旅芸人たちの浮き沈み、そして色恋を描いた作風は異色である。
そこに松竹を離れ、大映の俳優たちが多く抜擢され豪華絢爛な布陣が彩る。
貫禄の中村鴈治郎、京マチ子、杉村春子の名人芸はいうにおよばず、
若き川口浩と若尾文子の初々しいコンビもまた素晴らしい。
父娘、母娘の結婚をめぐる家族模様だけが小津安二郎的世界ではないのだ、
ということを再発見する映画でもある。

男の威厳が勝つか、それとも女の業が勝るのか?
駒十郎と年の離れたつれあいのすみ子としては、
男の身勝手な振る舞いが気にくわない。
退かぬ女の嫉妬を晴らすために、
親方のひとり息子を誘惑せんと、若い加代をダシに使う姑息な手に出るが
瓢箪から駒、ふたりは恋仲になってしまう。
つまりはキューピッドになってしまったわけだ。
息子だけは、カタギで立派に育って欲しいと願う父親の気持ちを
踏みにじられた思いで、駒十郎は憤り、加代にまで強くあたる。
しかし、それまで一度も父親とは名乗れず、
ひたすら叔父さんで通してきた駒十郎の胸の内など知るよしもない。
息子は急に事情を受け入れられないし、好きになった女のことしか眼中にない。
落胆する駒十郎を待ち構えていたのは、現実である。
一座との解散別離と一からの出直し。
人間の哀愁がじんわり滲むが、派手なやりとりは一切ない。
最後、夜の駅にたたずむ旅芸人夫婦二人に再び静かに情がともる。
車中で、晩酌を酌み交わす夫婦の妙。
会話の妙、表情、感情の綾を行き交う熟練のやりとりの、
どれひとつとっても、小津演出の巧みに野暮ったさなどない。

カネなく身寄りなくひたすらに芸人風情の哀愁が滲む一座の下っ端三人組、
三井弘次、田中春男、潮万太郎の醸すコミカルなやりとり。
石畳、石垣に囲まれた港町の情緒ある風景。
男と女、そして芸人一座の交流、肉親同士の心のふれあい。
総じて人間の悲哀をさりげなく魅せる、これぞ大人の映画である。
若いときにはけしてみてこなかった、
いや、おそらく見えていなかっただけなのだろう、
一連の微妙で軽妙な駆け引きに魅せられながら、
この旅一座、その浮き草稼業の哀愁に人生そのものを見る。
フェリーニの映画がカーニバルだとしたら、
小津の映画は、もののあわれがそっとしのぶ、
つわものどもが夢の跡、そんな映画だといえようか。







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