ドウェイン・マイケルズをめぐって

『Things are queer』1973
『Things are queer』1973

円を為すフォトシークエンスの終わりなき物語

連続することで見えてくるもの・・・
たとえば、そこにある葉っぱは葉っぱでしかないのだが
注意して観察すると、次には筋、
つまりは葉脈のようなものが目に飛び込んで来て
さらにそれを顕微鏡なんかで覗くことで
複雑かつ、美しい造形に出くわす。
すなわち視覚では到底検知されないマクロな原風景へとたどり着くのだ。

目の前にある物事や事象そのものは所詮断片にすぎず、
そうやって細部を引き延ばしていくことで
実体が浮かび上がってくるというわけだ。
サスペンスや刑事ドラマにおける犯人探しのように、
些細な事柄をひとつひとつ検証してゆくことで
動機と事件とがどこかのタイミングで結びつき、
真相があらわになってゆくのと同じような発見がある。

こうしたことは当然、物語の構造にも当てはまり、
表現の領域では日常普通に繰り返されていることである。
映画だと1秒あたりサイレントで16コマ、
トーキーで24コマの連続する画が
動きを伴って初めてひとつの物語となる。
シークエンス写真によって
複数の写真を単数の物語として構成することで
独自の解釈を生み出すアメリカの写真家
ドウェイン・マイケルズの写真について書いてみたい。

シークエンス写真という概念は、
それだけでフォトストーリーが出来上がってゆく。
たとえばクリス・マルケルの傑作『ラ・ジュテ』を思い返してみよう。
マルケルは連続する静止画で映画を形成したが
マイケルズはそれを平面の写真だけでやってのけただけである。

表題のシークエンス写真はその辺りのことを
雄弁に説明してくれていて
あえて無駄に言葉を重ねるつもりはないが
タイトルがちょっと気になった。
「物事は奇妙である」という意味のタイトルではあるが
実は「クィア(奇妙な)」という言葉には
セクシュアル・マイノリティに対する侮蔑用語としての意味が隠れている。

アメリカの文学研究者で
クィア理論(ジェンダー論)で知られる
イヴ・セジウィック女史の解釈では、「クィア」とは、
「連続する動き、運動、そして動因であり―繰り返し、
渦巻き、トラブル性をもつもの」ということらしいが、
ここではそう言ったニュアンスが多分に含まれているよう思われる。

同性愛者であるマイケルズが
仮に男と女という二元的な見方しかできない
社会や人間に対しての
なんらかのメッセージを込めているようにも思えてくる。

同性愛者を「クィア」な目でみるということは
偏見であり、偏狭なる視点でしかないのだ。
また「ゲイとレズビアン」というのも同じことで
多様なセクシュアリティーズとしての同性愛者たちを
十羽ひとからげに定義することはもはや不可能である。
そもそも、男の中にも女性的な部分はあるし
逆もまた然りで、
単にフィジカルな面だけで物事を判断することには
違和感があって当然なのだ。

その意味でマイケルズのシークエンス写真は
非常に興味深い問題を投げかけている。
つまり、同じ一枚の写真でさえも、
前後の写真の意味合いによって全く別の意味を持つということを
シークエンス物語の中で見事に表現している。

『Things are queer』の最初のバスルームの写真と
最後の写真は全く同じものだが、
途中に挟む写真によって
意味がまったく変わってしまっているのである。
しかも、最後の写真は同時にスタート、
つまりは円軌道としての運動を半永久的に繰り返す
そのような構造をもっているのが面白い。
これは映画における編集の理論にも通じている。

そもそも、映画は連続するコマの運動性が物語になりうるわけだが
マイケルズのシークエンス写真の一枚一枚の場合は
絶え動きのある映画では表現しきれない、
哲学的洞察が含まれていると言える。
AからB、BからCへと移り変わる写真は
元に提示されるそれぞれの意味を踏まえた上で展開されてゆく。
ここではすでにミニマムに簡素化された状態で
提示されているのだが
物語において、AからBへそのつなぎ目を埋めるのは
我々の想像力であり、考察でしかない。
そのために、画は複数なければならない。

これによって、映画のように連続する動きではなく、
写真によるシークエンスモンタージュとして、
そこには映画にはない“奇妙な”間が生まれているのだ。
ホックニーにおけるジョイナーフォト(フォトコラージュ)では
基本的に一枚一枚が同一時間、同一の場所のモンタージュとして、
視覚の死角を埋め合わせるように一つの宇宙が再構築されるが、
マイケルズのシークエンスフォトは
そうしたそこに視覚の死角をむしろ利用することで
ちょっとしたミステリーの気配さえ醸し出し、
別世界を構築してしまう。
こうして、単数の写真では絶対に表現しきれない多重な意味合いを
シークエンスを伴った複数の画像で構成することで生まれる多層空間を前に
我々は写真のもつ神秘性、可能性を感じずにはいられないのである。

ちなみに、ポリスのラストアルバムにして、
ビッグセールスを記録した1983年の『Synchronicity』での
ジャケット写真を手がけたのがこのマイケルズである。
これは、あのカール・ユングによる「非因果的連関の原理」
つまるところ、“意味のある偶然の一致”という意味の
シンクロニシティ(共時性)をテーマにしたアルバムで
そこにマイケルズのフォト・シークエンスが持ち込まれたのは実に興味深い。
元々、美術を学び、ルネ・マグリットやバルテュス、デ・キリコなどの絵画に
強く影響を受けながら、写真を撮り始め、
そこから商業写真で生計を立てながら、コンテンポラリーな写真家として
作品を発表し始めたマイケルズの名を知らしめる最初の契機となった。

その意味で、写真と絵画をめぐる偶然の共時性は、
例えば、初期フランドル派、ベルギーの画家ヤン・ファン・エイクによる
『アルノルフィーニ夫妻像』に写りこんだ凸面鏡の世界や
森村泰昌による『自画像の美術史』のなかの「マグリット/三重人格」
あるいは、ヒプノシスによるピンク・フロイドの『ウマグマ』のジャケットにさえも
マイケルズのシークエンスフォトと同じような気配を感じることができる。
それは「意味のある偶然の一致」を引き起こすための、
巧妙で、実に面白い隠された挑発なのだ。

Synchronicity:The Police

言わずと知れたロックの名盤と称されるポリスの『Synchronicity』。
個人的には、ものすごく好きなアルバムというわけじゃないけど、
「見つめていたい」なんかは誰もが知る有名なヒットナンバーだし、
確かに名曲には違いない。
けれど、わざわざユングの「意味のある偶然の一致」(共時性)」をモティーフにした
このアルバムのコンセプトまでを引っ張り出して
理解して聴いている音楽ファンが、どれぐらいいるのだろうか?
まして、そこに関与しているマイケルズのシークエンスフォトにまで
興味を持つというのは、相当なモノ好きか、変わりモノなのかもしれない。
が、今じっくり歌詞を読んでみると、なるほど興味深いものがある。
スティングって人は、やっぱりインテリなんだなって改めて思う。

Ummagumma:PINK FLOYD

ピンク・プロイドの傑作『Atom Heart Mother』や『The Dark Side Of The Moon』に比べれば
取り立てて語られるようなアルバムではないかもしれないが、
個人的には無視できないアルバムだと思っている。
そのヒプノシスによるジャケットワークに限って言えば、
そうした傑作アルバムに引けを取らない、なかなかひねりの効いた問題作だ。
すでにシド・バレット脱退後の4人
ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアによる本作は
それぞれA面B面をライブ・レコーディングとスタジオ・レコーディングという変則2枚組、
というような一風変わった雰囲気を醸し出している。
前作映画『More』のサウンドトラックアルバムからの流れを引き継ぎながら、
紛れもなく、ピンク・フロイド的プログレ風味が遺憾無く収録されており、
いわばサイケな実験音楽時代を代表するサウンドが展開されてゆく中で、
続く『Atom Heart Mother』や『The Dark Side Of The Moon』へと
進化を遂げてゆくその片鱗を覗かせている。

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