ボクダノビッチ『ペーパームーン』をめぐって

PAPER MOON 1973 Peter Bogdanovich
PAPER MOON 1973 Peter Bogdanovich

紙製の月への思い、後ろ髪引かれるにつき・・・

ヴェンダースの『都会のアリス』が
ボクダノビッチの『ペーパームーン』にあまりに類似しているというので
脚本の修正を余儀なくされたという事実は知っている。
いみじくもどちらも1973年の映画である。
一方がヨーロッパ、一方がアメリカという違いはある。

1973年当時の情勢の中で
個としてのアイデンティの彷徨をめぐる感の強い『都会のアリス』に対し
ウォール街大暴落による世界恐慌後の
アメリカ中西部を舞台にした『ペーパームーン』の方は
どちらかというと寓話のような空気がある。
だからと言って、この二つの作品を並べて
どうのこうの、比較したいというわけでもない。
『都会のアリス』『ペーパームーン』
いずれも甲乙付け難いぐらい素晴らしく
大好きな映画であることは間違いないのだ。
そしてどちらもロードムービーの傑作として
関心を惹いてやまない映画である。
そんなことで『都会のアリス』を再見した後
無性に『ペーパームーン』が観たくなって
見直してみたところである。

確かにロードムービーというスタイルではあるが
どちらかというと親子の絆(役中では他人)を
確認し合うハートフルなドラマだという印象だ。
オニール親子の共演によって
この二人の主人公のドラマにより深いリアリティが
生じているのは明らかである。
だからといって、それゆえこの映画は傑作なのだ、
という安易な帰結にだけはもって行きたくはない。
やはり、このドラマのベクトルは二人の関係性において、
どこかで繋がっているという前提を最後まで示唆しながらも、
物語として、親子であるという決定的事実が
ついぞ語られないところが魅力なのだ。

未亡人をターゲットにした禁断の聖書売りから
ちょっとした釣銭のごまかし、
密造酒の横流しの略奪まで
生計は詐欺で賄うモーゼに付いて回るおてんば娘アディー。
生意気盛りは9歳にして、タバコをふかす悪童だが
(実際にはレタスの葉で作られたタバコをふかしているのだという)
大人の顔色をみながら、うまく詐欺に加担したり、
相手をみて騙したり便宜を測ったりと、
大人顔負けの知的な側面を持ち合わせている。
顎のあたりが似ている、などと言って
アニーはどこかでモーゼを父親かもしれないと思っている節を
匂わせているところがこの映画のミソなのである。
まるで、ほんものの親子のようだが、実は関係はない。
死んだ母親の恋人である、という設定である。
そんな二人の間にはなんの縛りもないはずなのだが
物語が進行するに従って、その関係が実にリアルに
親密になってゆくがゆえのややこしさが
ドラマをスリリングにしている。
これぞロードムービーの醍醐味か。

モーゼがうつつを抜かすダンサーとの恋路を
邪魔するために考え出したアニーの見事な筋書き。
あるいは密造酒売買の闇取引業者から
まんまと密造酒をかすめ取ったあと、
裏でつるんでいる悪徳保安官に追われるシーンで見せる
アニーの勇気ととっさの既知。
まるで恋人や母親のように、そのピンチを救ってゆく。
子供とは思えないなかなかの演技っぷりで
まさにアカデミーで助演女優賞を最年少で受賞した肩書きに
偽りはない映画となっており
これが大ヒットしたというのもうなづける作品で、
今見ても面白い。

映画の話はさておき、
女性遍歴は数知れず、薬物にも手を染め
晩年には慢性白血病で闘病生活を余儀なくされた父親ライアン。
その血を引くだけあって
9歳にして酸いも甘いも嚙み分けてしまった天才子役テイタムだが
以後の人生は必ずしもバラ色とはいかない。
人生は実にうまくできているものだが
テイタム自身、父親の友人や母親の恋人からの
性的虐待を受けたという衝撃の告白をしているし、
それに伴い自殺未遂だのドラッグに溺れる日々を送り
あのマイケル・ジャクソンとも浮名を流したこともあるが
テニス界の悪童ジョン・マッケンローと結ばれ
三児の母親となるも、薬漬けの生活は改まらず離婚。
結局『ペーパームーン』を超える作品には
ついぞ恵まれることもなく、女優として再び輝くことがないままに
今日に至っているという女優である。

そんなテイタムだからこそ、
『ペーパームーン』でのアニーの奔放で
実に可愛らしい姿が余計に目に焼き付いてしまうのだ。
ラストシーン、叔母の家にたどり着いた時
車中にモーゼに残されたアニーの一枚の写真は
いみじくも紙製の月をバックに撮った劇中アニーの記念写真。
個人のカメラが普及する前時代、
人々の幸せの瞬間がこうした記念ショットに託された素朴な時代である。
そんな写真こそがペーパームーンに託された
裏読みのメッセージそのものなのかも知れないと思う。
荒野に伸びる坂道を、サイドブレーキの効かない自動車が
勝手に走り出して、慌てて飛びのった二人、
この映画の中の擬似親子のその後の未来の象徴のようなシーンに
たまらなく哀愁を覚えているところだ。

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