ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』をめぐって

ヴァンダの部屋 2000 ペドロ・コスタ
ヴァンダの部屋 2000 ペドロ・コスタ

闇と光に見るイメージの解体、あるいはイマージュの懐胎

映画館の闇に座ってワープする異空間。
まるで17世紀スペイン黄金時代の絵画、
ベラスケスの闇を彷彿とさせる佇まい。
網膜、鼓膜それぞれを刺激してくるザラザラとした質感。
画質、画面から伝わってくる何か。
物理的、あるいは精神的なノイズを感じる。
さりとてそれは美しく、詩的だ。
にしてもだ、久しぶりだ、この感覚。
この感性は只者じゃないのは直ぐにわかった。
ペドロ・コスタの問題作『ヴァンダの部屋』である。

リスボンのフォンタイーニャスという貧困街に、
監督自らひとり潜入して
決して隠し撮りやトリックではない
デジタルで撮り得た貴重なドキュメンタリーだが
正当に自覚を持った関係を結んだ女優との間に
明らかな共犯関係を見出しうるフィクショナルな映画でもある。
間違いなく本物の作家だと確信した。
がしかし、不覚にも、ところどころ退屈というわけでもないが、
集中力を切らして、鑑賞が散漫になってしまったことは否めない。
されど、体調万全でコンマ一秒たりと疎かにせず、
網膜と記憶に刻印すべく凝視したとて、
はて、数年後に細部を思い出すことは
その無常なまでの画面に刻まれた虚無感のみである。
厳しさがそこはかとなく漂っている。
それはブランクーシの映像を見せられたときの
戸惑いの入り混じった興奮の記憶を彷彿とさせる。

内容は記憶が薄れていても、
そのインパクトだけはしっかりと刻まれていく。
ペドロ・コスタが強いる映画という名目の問いは殊の外重い。
ストーリーや登場人物たちの仕草やセリフなどではない。
だが、全貌は確かに自分が求めているベクトルに位置づけられるし、
明らかに、自分の感性を疑うことなく
自分自身のそれであることを
紛れもなく自覚させてくれた作品であった。

自然光ゆえの薄暗い部屋のベッドで
2人の恋人のような男女かと思いきや、
なんと姉妹がのっけからクスリ漬けの濃厚かつ
自然な日常的な情景から始まり、
そのうち徐々に彼女たちを取り巻く環境の厳しさが
露わにされていくのだが、とはいえ、
何が事件めいた動的な映像という訳でもなく、
スラム街の解体という現実の中で
その名の通り、部屋という場からあまり出ることのない
ヴァンダというひとりの女性を取り巻く日常が、
ごろんと生々しく開示されてゆく作品である。

野菜を売って生計をたてているらしきこと、
あるいは咳き込むヴァンダの体調はどこか蝕まれており、
いわく付きの家族構成であることが見て取れる。
長回しで、しかも、カメラとの距離間も自然ではあるが、
彼女の暮らし、人生が間違いなくなんらかの帰路に立たされており、
その緊張感が終始しっかりと捉えられている映画であった。

とはいえ、たかだか三時間程度の情報で、
彼女たちの貧困世界の全貌をしかと掌握するまでには至らない。
人生そのものは映画など比べものにならぬ程過酷であり、
映画はそうした現実を前に
むしろ神秘性を与えてしまうことだってある。

だから、この一本の濃密なドキュメンタリーをもってして
物事を断定することなんてできやしない。
ただ、この作家の視線の両端に
否が応でも関心を持たざるを得なくなるという
映画のマジック、いうなれば、
強力な磁場が働いていることは良く理解した。

ペドロ・コスタは小津を敬愛する作家なのだという。
毛色は違うが、無理くりにこじつけてみればみたで、
その視線の落ち着き、品性のほどは伝わってくる。
また、若い頃にはパンクバンドでステージに立っていたこともあるという。
もう何作か続けザマに鑑賞したい作家だが、
今は時間が限られてしまった。
しかし、ドキュメンタリーの生の乾いた映像、
あるいはしだいにじっとり汗ばむようなカメラワークを感じて、
自分自身、映画を再認識するような気配がここにみなぎっていた。
自分の魂の乾きが求める映画とは、まさにこういう映画なのだ。

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