マルグリット・デュラス『インディア・ソング』をめぐって

INDIA SONG 1975 Marguerite Duras
INDIA SONG 1975 Marguerite Duras

我がけだ類、それはM・D な夜

ガンジスの夕陽をこの目で見たいと思う。
しかし、ガンジスはかくも遠く、
そして夢の中にさえ顕然する気配がない・・・
がしかし、あれはなんだったんだろう?
頭の中を占める漠然としたモヤのようなイデア。
立ち上っては消えるファントムなのか?

普段、いつでも、どこでも、
コテンと寝入ってしまうのであるが、
やはり、夏、ことさら蒸し暑いとなると、そうはいかない。
とりあえず、机にむかう、
が、その、なんだ、けだるいのだ。
けだるさをぬぐう、のではなしに、
けだるさに巻かれてまどろむのもよろしかろう、
と手元のDVDに手を伸ばす。
あたりは夜、人が静まった夜更けに、
デュラスの『インディア・ソング』を観てしまう、
あたかもアヘンを一服する支那人のように。

もうかれこれ三十年以上も見知っている映画、
なんども観る夢のような映像は、
いまだ、なにをもって語るにも、おっくうになる。
なんどみても、どこかで寝入ってしまう。
そして目を覚ます。
それは痛みではなく、虚無の放心なのだろうか?
がしかし、そこに横たわるテクストは、
ガンジスの流れのように雄大で孤高にみちている。
それにしてもなんと美しい映像なのだろう、
冒頭のガンジスの夕日、そして女乞食の歌、
これだけでここへ帰ってきたような気分になる。

デュラスは偉大な映画作家でもある。
それは映画、光のからくりを凌駕した彼方
彼女のテクストが孤高に横たわっている場所から、
語られることばをただひたすら己の肉体に落とし込むようなもの。
この擬似的な共有をもって現前せしめられる遊戯であり
それは映画とは別の、いわば肉体をもった観念であり、
言葉のむこうに、なにかしら、怖いような静寂があって、
なぜかそこはとても心地よい空間だと認識する自分が立ち現れ
そんな風にしてテクストを観る快楽に身をまかせることを
なんどとなく繰り返してきたのであるが、
それでも、いまだになにを理解するべきか、という問いには、
永遠なるものを前にたちつくしてしまうようなものらしい。

デュラス恐るべし。
とはいうものの、
実際の今、外は鳥のさえずりと、
普遍の夜明けを前に、このインディア・ソングは
真夜中、こうして、魅入られたように、
人知れず、時をえらんでみるべくして
撮られているように思え、
仮に目の前にガンジスが広がっていたならば、
そのまま、きっと現実に背を向け、入水するがごとく、
そのなかへ消え失せてしまうのではないか、とふと思ったりする。

インディア・ソングの奇妙にも陽性な旋律は、
アルコールや麻薬の酩酊の一種のようで、
血のなかを下っていく筏のごとく、
カルロス・ダレッシオのピアノが
ゆっくりと身にしみこんできたところで、
この朝は、決してガンジスの朝ではないと知る。
そこには愛の叫びも、物乞いの声もきこえず、
ただひたすらに、凡庸な八月の空が広がっていた。
こうしてみると、映画にも、日常にも
物語などいらない、などと不敵に思う。

それはすべて、テクストの罠であり、
テクストのロジック、なのだ。
こうして、物語から逃げたところで、
このテクストは書かれたのである。

Coup De Tête :Kip Hanrahan

カルロス・ダレッシオのサントラ版は映画に寄り添う音楽だが、
キップ・ハンラハンの Coup De Teteに収録された
INDIA SONGには、独立した音楽としての捨てがたい魅力がある。

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