鈴木清順『肉体の門』をめぐって

鈴木清順 1964 「肉体の門」
鈴木清順 1964 「肉体の門」

焼け跡潜れば肉体の悶

こちとら昭和世代とはいえ、戦時中、戦後の動乱期などは
これっぽちも知らない人間からすると
戦後闇市における群像劇、ときいても
映画や小説からかき集めた知識は所詮他人事なのだ。
まして、“ノスタルジック”などという形容に浸るような感慨は皆無である。
あくまでイメージにすぎぬその想いは
そこには多分に人間そのものの原風景たる息吹が宿って
生き抜くためにそのギラギラした生命力が必須だったに違いないという、
まさに想像の世界に過ぎない。
とはいえ、そこに日本復興の原点があるように思えてくる。

原作田村泰次郎からの映画化『肉体の門』を何十年ぶりかで見た。
以前観たのは映画館ではなく、確かローカルなテレビだったような気がする。
テレビで清順を眺めいるというのは気楽だが少し物足りない。
映画館の闇に身を置けばより楽しめるのは言うまでもないだろう。
その活劇では、泣く子も黙る清順節にグイグイ引っ張られるが
後期に見せたキテレツかつ人を食ったような、視覚第一主義とは一味違う。
いわば清順鈴木流リアリズムの追求はストレートに目につき刺さる。

今となっては半ば冗談めいて振り返るにちがいない逸話の数々の持ち主。
いかにも大正生まれの江戸っ子だ。
おかしな映画を撮る危険人物だとして
日活を解雇された伝説の映画人たる鈴木清順なら
こうしたリアルな人間の群像劇を扱わせても
十分に魅力的な画を作れる人だということを再確認できる作品である。
なんと言っても『悪太郎』から組んだ片腕木村威夫の
モノクロながら、芸術的美術セットには惚れ惚れしてしまう。
細部にまで行き届いた職人技が冴え渡っている。
まさに芸術品が支えている映画なのだ。

そんな中、途中宍戸錠演じる復員兵伊吹が一頭の牛をつれて現れる。
おや、まるでブニュエルじゃないの?、と思わず息を飲むが、
それは流石に思い過ごしだった。
戦後焼け跡地に住み着いた身体を売る商売女通称「パン助」たちの
たくましくも、悲しく残酷なストーリー。
5人の女たちがまた、それぞれに魅力的で、
清順は彼女たちの個性を秀逸に色づけしていると思う。

リーダー格、関東小政のおせんこと河西都子は赤のイメージ。
蓮っ葉で言動が実に野生的だが、その風格はリーダーに相応しく、
リンチシーンにも容赦なきその神髄が宿る。
そしてジープのお美乃こと、松尾嘉代も蓮っ葉ながらのパープルか。
個人的に大好きな女優であるが、
持って生まれた色香を漂わせ、多いにそそられる。
新入りセブンティーン、清順組で輝く女優といえば
ボルネオ・マヤこと野上由美子のグリーンな野生味には敵わない。
『花伝婦』で見せた命がけのスタイルは、ここでは悪あがきの肉体の消耗が
その切迫した表情とともに押し寄せてくるのだ。

ところで、フウテンお六こと石井富子、
かつて昭和のお茶の間では、
どこか隣の世話好きおばちゃん的役柄でお見かけし、
実に庶民派コメディ女優だと思っていたが
ここでは体当たりな演技で堂々食い込んでいる。

全編、ワイ雑さやエロティシズムは希薄だが
それでもどこかワイルドな生の人間そのものを醸し出す
肉体のエロスが満ちている。
ここでは、清順組で助監督をも務めた日活ロマンポルノの巨匠西村昭五郎、
さらに踏み込んだ肉体のエロスといえばこちらも負けてはいない。
1977年に撮られたその監督作品も併せてみたが、これもまた素晴らしかった。
同じ日活だけに、流れは清順の流れを汲んではいるものの、
ロマンポルノだけに、男女の絡みは避けて通れない。
より生々しい人間の欲望を垣間見ることができるだろう。

ちなみに、清順〜西村の傑作のあと
五所篇もあるのだが、こちらは少し趣が違うかもしれない。
絢爛豪華な女優陣にこそ食指がうごくが
完成度、映画の質においては先行の二作の方をお勧めする。

いずれにせよ、戦後混乱期に
身を売ってまで強く生き延びる女たちの
「食うために売るのか、売るために食うのか」
この凄まじいエネルギーに日本復興の活力を見る映画だ。

Rollin’ Rollin’:七尾旅人×やけのはら

映画とは何の関係もない、一見ミスマッチにも思えるが、トラックメーカー&DJやけのはらが頭に浮かんできた。そのやけのはらと七尾旅人のコラボトラックの名曲「Rollin’ Rollin’」。どこまでもころがってゆく戦前の無軌道な推進力に対し、無理やりこじつける気はないが、クールで、気持ちよいビートに身を任せ、「そのグルーブに誘われて」どこまで無限に野原を転がってゆきたい。

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