ジャン・コクトー『オルフェの遺言』をめぐって

Le Testament d'Orphee 1959 jean cocteau
Le Testament d'Orphee 1959 jean cocteau

詩で書かれた遺言をしたためて

コクトーの遺作映画『オルフェの遺言』のなかで
とある可愛らしい少女が、コクトーの絵(タピスリー?)の前で、
ジャン・コクトーとは何ものか?
と司会者らしき人物に問われ、「ヴァイオリン弾き」と答える。
さらに、「ヴィオロンダン(ヴァイオリンの何?)・・・」とヒントもらうのだが
これにはいわゆる下敷きがあって、
アングルという画家が、バイオリンを得意としていたことから生まれた慣用句から、
『Violon d’angle」つまりは「余技、あるいはへたの横好き」
という意味の言葉を引き出さんがための巧みな誘導というわけだが、
それを少女は『Violon dingue」すなわち、「いかれたバイオリン」と答えてしまう下りがある。
いかにもコクトー的レトリックのユーモアで、思わずニヤリとしてしまうシーンである。
コクトーという詩人は、その詩作のなかでも
こう言ったことをたえず好んで繰り返してきたのだ。

余儀といえば、たかだか二刀流程度で満足することなく、
生前のコクトーが、多彩なマルチの走りとして記憶されているのは周知の事実である。
なかでも映画(シネマトグラフ)は特別な詩(ポエジー)の発露であった。
冒頭でコクトーはこんな風に告白する。

映画の特権、
それは数多くの人々を一堂に集めて同じ夢に酔わせ、
厳しいリアリズムで非現実的な幻影を見せる事だ。
いわば映画は詩を運ぶ車だ。
私の映画はストリップにほかならない。
私の肉体を1枚1枚はぎとり全裸の魂をみせる。
なぜなら真実以上の真実に飢えた観客がいるからだ。
彼らこそ我々の時代のしるし。
この映画は詩人を支持したわかものに宛てた遺書である。

コクトーは、かつて、映画を「詩人による最大の武器だ」と公言し
サイレント『詩人の血』で映画作りに目覚めて以来
生涯に、6本の映画を手掛けているが、
最初から最後まで、自ら主演し裸の魂をさらしてみせたのは、
この『オルフェの遺言』のみだけである。
そこに老境の身、おいさらばえた姿であらわれ、
その遺書たる思いを綴った集大成として
最もコクトーらしい作品をここに撮り挙げたと断言出来る。
時間軸を自由に繰りながら、生と死の境界を行き来することで
裸の詩人の姿を晒す。
もともと詩人は立ったまま眠る、というのが常套句であり、
死はけして、終わりを意味しない。

そこに特別な振る舞いはなく、あらゆる表現同様、
一貫してコクトー流のポエジーに貫かれている。
このポエジー、今見ると、一見稚拙に見せるかもしれないシーンがいろいろ出てくる。
逆再生、二重露光、スローモーション・・・
もっともよく駆使されるのがフィルムの逆回しによって、
時間軸を反転させると言ったどれも究極のアナクロニズムだ。
散った花びらが咲き、海に落ちたセジェストが巻き戻される。
燃え尽きた写真が火の中から再生されたり、
タイトルバックでは割れて煙を吐き出した風船が現れる・・・
当時はこれが限界だったのだが、それはそれで味がある。
こうして、コクトーの瑞々しい詩によって死が見事に再生されるのである。

冒頭で、ルイ15世風の衣装を纏い、空気のように現れ驚かせるのは
トリュフォーの『大人は判ってくれない』で
デビューしたばかりのジャン=ピエール・レオーだ。
その父親である科学者の手を借りて、17世紀から現代へと
時空を越えるために、死によって過去と決別し精算してみせると
コクトー自身が抱える問題意識をそのまま現代へとトリップすることで、
生の苦悩をにじませる等身大の詩人として現れるのだ。

『オルフェの遺言』は、コクトーが生涯にわたって追い求めてきた
生と死をめぐる壮大なロマン(ポエジー)について綴られる映画による詩である。
前作『オルフェ』で描いた悲哀を自らの身に置き換え、
コクトーの生涯を貫いたポエジーの総決算として再構築されたものだが
それは決して、続編というわけでもない。
クライマックスで、宮殿の廃墟のような場所にやってきて、
ユル・ブリンナー扮する執事案内されるのは
半人馬を従えた知恵の女神ミネルウァの前の審判である。
そこで、槍の一撃で命が尽きてしまう詩人。
見守る友人パブロ・ピカソ夫妻、ルチア・ボゼー、そしてジプシーたち。
だが、「我が友よ、泣く真似をしてくれるだけで良い。
詩人たちは死の真似事をしてみせるだけなのだから」そう言い放って
詩人は再び、黄泉国から不死鳥のように舞い戻って彷徨する。
立ったまま眠る詩人が途中に出会う
スフィンクスやアンティゴーネに手引きされた
盲目のオイディプスの幻影追い払いながら、目覚める。
そこには、ひたすら運命に導かれて、彷徨うしかないという
詩人の絶望がある。

通りがかったバイクはかつて、『オルフェ』でセジェストに死をもたらした、
いわば文明の象徴であったわけだが、ここではそうした力などもちえない。
なぜなら、詩人はすでに死んでいるのだから。
死んでなお、生き続けねばならぬ存在なのだ。
こうして死から再生した案内役セジェストに導かれ再び、岩肌へ消えてゆく。

この映画の副題に掲げられた「私に何故と問い給うな」。
詩人の言葉において、「なぜ」は必要ないのである。
理屈や道理の通らぬ世界である。
死でさえも、決して問うてはならぬのである。
生きながら死ぬこと、さながらその逆は、詩人としての宿命であり
それがコクトー流のレトリックなのである。

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