黒沢清『CURE』をめぐって

黒沢清『CURE』

洗脳、それとも無意識か? 卑しい心理に入り込む悪魔のバツゲーム

これまで催眠術などというものを
一度たりともかけられたことなどない人間だが
仮に、そういう機会が訪れるとしたら
案外あっさりとかかってしまうのかもしれない、
という怖さだけを普段どこかで感じ取ってはいる。

否定こそしないが
つまり、催眠術に対するマイナス的要素に
気がいってしまっている証拠だろう。
プチ洗脳といえばそれを否定できない。
誰かに感情をコントロールされてしまう事への恐怖。
自分が自分でなくなってしまうことへの恐怖。
そして、それが取り返しのつかない事態に発展してしまう恐ろしさ。
総じて他人からの洗脳への恐怖と言っていいのかもしれない。

逆に考えれてみれば、
むしろネガティブをポジティブへと変化せしめるには
日常的にも、“暗示”という程度のたわごとなら
しばし目にするいたって普遍的な心理であることを理解する必要がある。
その意味では今更恐ることもないのかもしれない。

その催眠術を巧みに利用した殺人がテーマの
黒沢清による『CURE』という映画のことを
これから書き始めるわけだが、
これはサイコスリラーというジャンルになるのだろうか、
ホラー映画として語るには多少違和感がないでもないが、
十二分に怖い映画である。
いや、ものすごく怖い。

『CURE』という映画の感想は
一言で言えば人間の深層を考えさせられる映画、ということである。
オカルティズムやスピリチュアリズムとは違って
人間そのものに潜む心理の綾を巡って
そんじょそこらの話題性だけのホラー映画よりも
はるかに怖い話が終始展開されているのだ。

ことによったら、誰も幸せにならない映画とも言える。
何しろ、感情移入したい登場人物は一人も出てこない。
なのに、なぜか好きな映画として
ずっと記憶の網に引っかかっているのだ。
そして、事ある毎に見たくなって
見てしまっては、いつも同じように嫌な感情と
なんだかものすごく確かな充足感という
相反する感慨に揺り動かされてしまう。
黒沢清の代表作にして、もっとも好きな作品の一つである。

まさか、この映画にそうして催眠術的効果、
サブリミナル効果と言うんだっけか、
そんな仕掛けでもあるっていうのだろうか?
まあ、世の中の嗜好など、おおよそ思い込みで
マスコミの洗脳だと言っても過言ではないのかもしない。

自分が頑なに信じきっていることさえも・・・
だからこそ、自分の嗜好ぐらい、
はっきりと認識して、
その偏愛のなんたるかを伝えなけれならない、と
躍起になってしまうのかもしれない。

とまあ、あまり真剣に考え、書けば書くほど
事の真相からは隔たってゆく気がする。
『CURE』の面白さは、殺人の動機が
その犯行の主体そのものにはなく、
その内にある無意識にあるという点である。

萩原雅人演じる間宮という記憶障害を抱えた男が
出会う人間たちにことごとく催眠暗示をかけ
教唆犯的に殺人を繰り返してゆく。
だから、悪はそこにある、というような
単純な話ではないのである。

役所広司演じる刑事高部は、
精神疾患に苦しむ妻をかかえ
その内面に重荷としての重圧を抱え込みながら
刑事という表向きの正義との間で板挟みになっている。
妻の精神科の医師にも「あなたの方が病気に見える」
などと言われてしまうほどである。

そんな心理をこの間宮に見透かされて、
ますます、術中にはまってゆく。
犯人の身元を突き止めた後、
隔離された病棟の一室に赴き対峙する間宮が
高部と一対一でやり取りするワンカットのシーンの
情動的描写の素晴らしさ。
テーマも資質も全然異なっているのに
なぜだかタルコフスキーの映画でも見ているような
そんな緊張感がそこはかとなく支配しているのだ。

そして何よりこの映画のテーマが
実に見事に描きだされているシーンでもある。
ミイラ取りがミイラになるシーンとでも言えばいいのか。
相手を糾弾しようとして向き合ったはずなのに
「本当の自分はどこにあるのか」を逆に問われ
自分を失ってゆく、つまりは人間性が壊れていくシーン。
ただの映画で、これほどまでに心を揺さぶられことは
そう滅多にあるものではない。
それぐらい、素晴らしいシーンなのである。

こうした負の連鎖によって
次々に事件が起きてゆくのだが
その事件の一つ一つはまさに見るものを
心理的にゾッとさせるシーンばかりである。
ライターの火や溢れる水を導線に
深層の闇が殺人によって解放されるという。
それが切り裂くバッテンの記号として利用される。
なんでもドイツの医師で催眠術の開祖メスラーの手法
メスメリズムとして引用されているのだとか。

そんな心理学にも精通しているはずの
高部の友人、うじきつよし演じる精神科医の佐久間や
高部が安堵して食事をとるレストランで
なんでもないウエイトレスまでもが
そうした毒牙にかかってしまっているという衝撃。

この映画には具体的な終結、
すなわち事件への解決方法などないという塩梅だ。
最初から、物語はそうしたベクトルへと進むことはない。
だから、高部によって間宮が射殺されたことが
事件の解明、解決には繋がらない。
繋がらないどころか、今度はその矛先が高部自身にまで忍び寄ってゆく。
だが、映画はそこで幕だ。
この余韻こそ映画の中でしばし使われる、
あの切り替えの真っ黒いバックと同じように
心の闇としての無限ループを代弁している。
沈黙の闇で、観客は考え始めるかもしれない。

「私は誰なのか?」
「僕は本当の僕自身を生きているのだろうか」などと。
『CURE』が傑作たる所以である。

くれぐれも催眠術には気をつけたいものだ。

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