高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』をめぐって

高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』

ドン引き? 線引き? ボリシェヴィキ?

そもそも、ホラーって何?
そう思うことがしばしばあるのだが、
しかし、言葉で軽く断じれるほどこのジャンルに明るくはないし
懐の深さと領域は玉石混交で、それこそ言葉を超えた世界が広がっている。
実に定義自体が難しいジャンルにはちがいない。
恐怖の概念は人それぞれである。
それこそ、怪談程度の話なら巷にあふれんばかりに伝承されている。

個人的には人間の理解を超えた
超次元な世界に対する畏怖は絶えず持ち続けてはいるのだが
本当に恐ろしい(ホラー)ものといえば、
人間そのもの、その存在だと信じている。

理屈は一旦、置いておこう。
ことホラー映画と呼ばれるジャンルは確かに人の関心を引きつける。
怖いと知りながらも、聞き耳を立て、指の間から瞳孔が爛々と輝く。
恐れそのものに対する本能的関心というものが
我々のうちに根本的に埋め込まれているものなのかもしれない。

ところで、最近の新しいスタイルのホラー映画の数々、
例えばジョーダン・ピールの『ゲット・アウト』や『AS』
ナ・ホンジン『哭声/コクソン』やアリ・アスター『ヘレディタリー/継承』
と言ったちょっと難解だが面白いアプローチの映画を観てしまうと、
これはこれで面白いジャンルだな、と関心してしまうのだ。
元はホラー音痴であったが
食わず嫌いだけでやり過ごすことはやるまい、という思いで
ホラー映画を考えられるようにはなってきた。

とはいえ、ホラーというよりは、
異常心理ものの、心理的に迫ってくる映画というものにこそ
昔から惹かれてきたわけで、
それならば、ポランスキーの『反撥』や黒沢清の『キュアー』
あるいはジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』
代名詞たるヒッチコックの『サイコ』と言った、
ただ恐怖を煽るだけの、見せかけのホラーではない、
人間心理の織りなすドラマ、つまりサイコサスペンスものにこそ
自分の関心の矛先があることを再確認するだけである。

そこに近年、何か面白いホラー映画を観てみたい
というような欲望がふつふつと湧いてきて、
ふと辿りついた先が高橋洋監督の『霊的ボリシェヴィキ』という映画である。

高橋洋という作家はまず、
脚本家として『リング』『女優霊』で
Jホラーというジャンルを確立した第一人者だが、
まだ、そう詳しく語れる対象でもない。
しかし、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルの響きからして
単なるエンターテイメントを超えた何ものかを
想起させるには十分のインパクトがあったし、
この先、日本の映画土壌、このジャンルにおいて
可能性を感じる作家である事は間違いないところである。

「霊的ボリシェヴィキ」という言葉は
神道霊学研究家という何とも不思議な肩書きの
武田崇元という人が70年代初期ごろに提起した概念だという。
確かに学生運動で血気盛んなあの時代の空気が産み落とした
何か物騒な背景に、そぐわしい響きがしてくる。
もともとボリシェヴィキというのが、
レーニン率いる革命的左翼をいう言葉だから、
そういう世界に全く明るくない自分がただ言えることは
その二つが合わさることの異質っぷりに
ものすごく惹きつけられる何かがあった、
というぐらいがせいぜい関の山かもしれない。

そんな風にして、引き寄せられて見つめる先に
レーニン、スターリンというロシアの二大革命家の写真が掲げられた
奇妙な廃屋の工場のような施設に
いたるところに集音マイクが設置されている。
そこで「あの世」というものに何らかの接触を持った、7人の男女、
すなわちここでは“ゲスト”と呼ばれる人間たちが集められ、
実験の名の下に、いわゆる怪談噺を順に繰り広げ、
それをアナログのオープンリールカセットが静かに記録しているのだ。
その不気味さと言ったら、いったいどう説明すればいいのか?
しかもボリシェヴィキ党歌を全員で合唱するというふざけた生真面目さが
しょっぱなから妙にツボにはまってしまい、
いよいよ席を立てなくなってくるではないか。

このいかにもインディペンデント風な作りで
ほとんど予算もかかっていないような作り、空気感でありながらも
わけがわからぬまま
その世界にどんどんひきこまれてゆくのがとてもスリリングなのだ。
正直なところ、このキャスティングには
さほどそそられる要素がなかったのも事実だが
軒並み、ストーリーの展開によって
次第にのめり込んでいくことになる。

結局は、霊がどうの、あの世がどうの、
それとボリシェヴィキがどうの、ということではなく
映画としての求心力に引っ張られて、
幽霊らしきものが出ようが、
悪霊らしきものが出ようが御構い無しで
強引に終焉に進んでいくあのラストが
まさにわけがわからぬまま
“皆殺し”の結末を迎えることになるのがこの奇妙な映画である。

そもそも、霊という世界を扱っていて
理詰めで展開されるはずもないのだが
これを以ってホラー万歳、とは間違っても叫ぶには及ばない。
たとえ霊そのものがおびき寄せた世界であれ
恐ろしきはそれを盲信し、それによって
集団自決? ような結末になる展開へと進んだ
人間のもつ狂気の方が何倍も恐ろしく思えた。

果たしてこれが霊によるものなのか?
暴力的というよりは、
まさに霊的不思議の国のアリスである。
そんなある種の寓話のような印象さえ受けるのだが
この話が、一時間強で終わってしまうことで
もっと続いてもよかったとも思うし
あるいはこれから先へ進めばすんだで
せっかくのスリル、不気味さがどこかで色褪せてしまい、
一切が台無しになってしまったかもしれないとも思う。

とにかく、この映画の加減がちょうど自分には程よくフィットして
その過程まではよく知らないけれど
久々に、日本映画の可能性を感じた気がしたものだ。
それが果たしてどこまで正気の沙汰からの思いなのかさえ
今尚判然としない。

こうして、ちょっと面白い映画に出会えたという思いが
確かにあるのだが、
またしてもここで“傑作ホラー”には出会えたなどとは
声高にいうつもりもない。
この先、この高橋洋監督の動向には
改めて注目してゆきたいのだが、
この映画がそんな風に我が魂を揺さぶってきたことの方が
今の自分には重要なことなのだと思えている。

スターリン:ワルシャワの幻想

日本における凡百のパンクバンドとは、一線を画していたのが遠藤ミチロウ率いるザ・スターリン。当時はなんだか仰々しいバンドだなと思ってみていたけど、そこには一本筋の通った硬派な魂みたいものはあった。このサイレンの音と共に始まるスターリンの「ワルシャワの幻想」。これは町田町蔵INUの「メシ喰うな」に対するオマージュというか、パロディというか、ある意味、ブラックジョーク好きなミチロウの真骨頂が叫ばれる。

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