佐藤真『阿賀に生きる』をめぐって

阿賀に生きる 1992 佐藤真琴
阿賀に生きる 1992 佐藤真琴

悪意と悔いを秘めた志しと眼差し

序:住み込み稼業の映画道の結末とは?

ここに名をあげる映画作家佐藤真という人は
かつて、とある映画学校の講師をしていた。
自分はそこで初めて佐藤氏の作品に触れることになる。
そのもとで曲がりなりにも映画とは何か、
ドキュメンタリー映画とは何かを学んだ。
その講義の中では、技術論というよりは
むしろ方法論、映画に向き合う姿勢のようなものしか
教えてはもらえなかった気がする。
あとはほとんどが授業後の酒の席で
同志たちとワイワイやるのが楽しかったのを覚えている。

もちろん、学校という名の元
一通りのカリキュラムがあり
映画作りのノウハウも当然学べるのだが、
ドキュメンタリー映画というものは
自分が作品を撮って来ないことには始まらない。
それを公開しながら講師たちの寸評、アドバイスが入る。
それがなければ、鑑賞者の域を出ることはない。
そういうところが劇映画とは違う面白さではあった。

佐藤さんの映画というのは
そうした映画作りの本質を鋭く暴き出していた。
『阿賀に生きる』という映画をみたときの衝撃は計り知れない。
それは決してアバンギャルドなものでもなく
何かしら、時代を意識させるような華々しいイコンに満ちているとか
そうした娯楽性を重視したものではなく
ただ、その地域に生きる人間の生の生活を丁寧に追い続けた
長年の記録が映し出されていたのである。

その生の営みが、たまたま水俣という社会問題を
発症した地だったというだけのことで
ただその地に生きる素の人間たちの表情は
問題があろうとなかろうとそこにあり
そうした現実の時間がフィルムに刻印されているのだった。

しかし、そうした素の表情が素の表情として映し出されているのには
実は仕掛けがあったのである。
つまりは、これは本人の言葉を借りるなら
「悪意」に満ちた映画作家による演出ということである。

映画を撮るという名目のために、現地に三年間
自らの人生をあたかも奉仕活動のように捧げながら
集団として記録し続ける行為が普通の行為なのだろうか?
映画を見終わった後に残る感動の裏に
何やら妙に引っかかるその「悪意」の真髄に気づき始める頃には
自分はドキュメンタリー映画というものの奥深い溝に
どっぷりハマっていたのである。

いわゆる住み込み撮影というやつで、
映画をとるためだけに現地に居座って生活をする、
まさにダイレクトシネマと呼ぶにふさわしいこの形態は
無論佐藤真の専売特許というわけではなく
それ以前に小川プロという、これまた尋常ならざる映画集団がいたことで
佐藤氏はこの映画を撮るためにその方法論を踏襲したに過ぎない。

成田闘争で名を轟かせた三里塚を舞台に
地元民との共闘とともに彼ら映画作りを志すものたちが
一つの社会を形成していた小川プロの軌跡は
映画作りとしては異質であることは疑いようもない。
小川プロの目的はただ映画を撮ることにある。
地元の反対農民と肩を組んで空港建設に意義を唱えるために
わざわざ加担していたわけではない。

どうすれば本物の姿を描き出せるか、
という究極の方法論の中で
現場で生活を共にするという選択肢が生まれたのだろう。
それはいわゆる美談でも何でもない。
本来の運動とは別に
まさに「悪意」に満ちた映画作家と
民衆の凌ぎ合いがあるのだ。
その捻出が映画史に残る『三里塚シリーズ』であり、
その精神を継承したのが『阿賀に生きる』である。

こうした命がけである映画作りの現場が
いかなるものであったかを
自分は佐藤氏を通じ学び、啓蒙され
ドキュメンタリー映画を自分なりに作りたいと思った。
けれども、自分にはそんな命がけの覚悟もなく
実はカメラという凶器の前にたじろぐだけで
映画づくりの夢と戯れながら、鑑賞者の域を超えられずにいたのだ。
そうした作品を見ているだけでも十分に感動は得られるが
現場で、試行錯誤を繰り返し映画と向き合うことは
人生同様意義があることに思えたし、
未だ抗えない魔法の磁力を感じている。

残念なことに、佐藤さん自身が
すでに鬼籍に入られてしまった作家であり
わずか数本の作品を残し、
志半ばでこの世を去ってしまった現実を受け止めている。
しかも自らの手で最後の決定を下してしまわなければならなかった、
ということの意味を改め考えて見ると、
やはり、どうにも映画をとるという行為に
そんな生半可な覚悟で向き合うには
限界があることを自覚し始めている。
もちろん、映画とどう関係があったかどうかまではしらない。
けれども、映画を撮る行為がすでに生き様になってしまっていた以上、
それは生易しいことではないことぐらいは理解できる。
映画を撮ると言う行為は、それほどまでに人生を狂わせるものなのだ。
いや、そういう人であったからこそ、
自らその映画の魔力に引き寄せてしまった作家なのかもしれない。

番外:阿賀に生きたことへの記憶をたどるタイムムービー

それでも、ドキュメンタリーのみならず
映画というものを見るにつけ
そこに存在する制作現場と作家との狭間の格闘までもが
作品を超えて、何やら不穏な気配を漂わせる、
そんな映画に知らず知らずに惹かれている自分がいる。
だからこそ、あえて、ドキュメンタリーとは何か。
映画とは何か?
そして、映画を撮るという行為が
一体どういう意味を持つのか、
優れた作品を通して考察してゆく中で
映画と向き合う自分がいる。
そのこと自体が、すでに映画を撮り続ける映画作家への視線を
感じ取ることと同等の意義を感じている。

ただでさえ地味な佐藤真監督の、
その後の『阿賀の記憶』を観た。
『阿賀に生きる』からすでに十年。
が、それは決して色あせない人間の営みを刻印した
これまた、真のドキュメンタリーの傑作であった。

監督はすでにこのジャンルにおいて、
他の追随を許さない巨匠になっていた。
もっとも、まったく当人にその気はなさそうである。
どこにでもいそうなひとのいい“おっちゃん”である。
服装などにはとんと無頓着、酒ばかりくらって、
いつもへらへらしていて、軽佻な感じ。
でもしゃべるとけっこう“ボロ”が出る、

佐藤さん本人のコトバを借りれば
「悪意」に満ちた真摯な映画作家のまなざしをそそぎながら、
あまり人が向けないようなところをわざと選んでいるかのような
独自のアンテナを駆使しながら、
実は、普通にしていたら、簡単に通り過ぎてしまうような
日常に潜む“間=魔”を野心的に捉えうる希有な作家である。

すでに鬼籍に入ってしまった、
監督が愛おしくフィルムに刻印した阿賀のおじいちゃんたちの、
まるで、そのファントム、幻影を写しこんだかのような16ミリフィルム、
ソクーロフかブラッケージか、その曖昧な空気感に、
アニミズム的な息吹さえ宿って、
いよいよ、佐藤さんという人は、
ホラー映画のジャンルへと繰り出したのかとさえ思わせる。

というのは、まあ冗談だけれど、
写真家牛腸茂雄のドキュメント『SELF & OTHERS』にも漂っていた
「不在の描写力」がいよいよこの監督の目指すところのテーマとなってきた。
そして、かつて撮り終えたNGフィルムをひっぱりだしたり、
あえて、対象をスクリーンの枠外においやり、
方言への注釈を断ち、同時録音を度外視した音の数々を捏造し、
そして88歳の民謡歌手を堂々利用し、
不在の場所を見つめてゆく視線が、
それらホラー映画の堂々たるネタ、である。

それにしても、どんとかまえた囲炉裏に、
かつての主の不在へのそそがれうるまなざしの途中、
やかんが主人公として、画面堂々語りかけてくるとは・・・
およそ、時代からおいてかれてしまうような雰囲気ながら、
関係なく飄々と映画をとり続けようとするこの監督は、
その外見とはうらはらに、じつに、凄い監督なのである。

そもそも三年の年月、現地に住み込んで
『阿賀に生きる』を撮ること自体尋常じゃない。
阿賀、それは第二水俣病でしられる、
新潟の河川の町である。
結局、水俣にはじまった彼の映画人としての出発地
この阿賀に帰ってきたわけであるが、
そこには、水俣病への言及らしいものはほとんどみられない。

むしろ、風土や、空気感への抽出といった
間接的なアプローチによって、
土地が醸す哀しみや痛みのようなものが、不意に襲ってくる。
そういう意味では、小川伸介という、
ダイレクトシネマの偉大な先陣の意志を受け継ぐ、
映画の哲学者と言っていい佐藤真の
記録と記憶にまつわるフィルム上の葛藤から、
いよいよ時代は目がはなせなくなっていることを
静につげているのが『阿賀の記憶』なのである。

以上

これは随分昔に書いた記事だ。
こんな記事を書いた数年後の九月。
佐藤さんは自ら不在者となって
スクリーンの彼方へと帰っていったのである。
その不在感は未だどこか心の片隅から離れない。

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