ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.15

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官能ぷれじゃあ

エロス、エロティシズム、官能性について、語るとき、
ちょっと小難しいことばでいうならば「「死にまで至る生の称揚」などと、
バタイユを引っ張り出すことはできるが
文学や言葉のエロスを信奉こそすれ、
そんなことで得意がっても、生物学的、本能的欲望が
理解され、満たされるわけではないことだけはまちがない。
まして、いくら言葉を重ねてみても、エロティシズムには到達できない。
いうなれば幻想でしかない。

バタイユはこうもいった、
エロティシズムとは、動物の性欲とは対照的な内部体験であるのだと。
それにしたがえば、欲望は常に当事者の個人的な趣味、嗜好によるものであり、
「人間の意識において、彼の内なる存在とは何かを問題にするもの」
ということは、まさに真理であって、その闇は殊の外深く、
そして、曖昧模糊としたものである。

さすれば、より具体的に、映像の力を借りてみよう。
というので、先に日活ロマンポルノの特集を組んでみたが
それとて、いわゆる世に出回る単なる
消費文化としてのエロ産業とは大いなるズレがある。
もちろん、消費文化としてのエロをここで称揚したいわけでもないが
猥雑なもの、あるいは猥雑にみせかけるものは、やはり、人の気を惹く。
それは人間の根源的な欲望にリンクしているからなのだろうか?

そんなわけで、春たけなわの今、
個人の趣味的範疇において、エロティシズム漂う映画について考察してみよう、
そんな欲望がにょきっと頭をもたげている。
それは必ずしも、直接的でない表現かもしれないし
言葉に依存したエロというものかもしれない。
単に個人的なエロスの観点がさらされるだけだが
ひとついえることは、それらが滲ませるエロティシズムは
とても興味深いのものだということだ。
人間の生の営みのなかに存在する官能性を喚起するものである。

それが最高の形で発露される映画というものに、
ぼくの心は、身体性をともなって魅了されててきたのだ。

特集:死に至る高揚の季節を彩る、感傷を廃してエロスと戯れるフィルム

  1. ちょんギルティの誘惑。これぞ愛の定めなり・・・大島渚『愛のコリーダ』をめぐって
  2. タンゴのセックスは、チョイ悪おっさんの性的アナーキズムを増長する・・・ベルナルド・ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』をめぐって
  3. 砂に溺れて・・・勅使河原宏『砂の女』をめぐって
  4. おぼこ娘にゃわかるまい、魔性の女のゴーインなマイウエイ・・・増村保造『「女の小箱」より、夫が見た』をめぐって
  5. 昼顔か薔薇か、エロスと快楽のせめぎ合い・・・ルイス・ブニュエルの『昼顔』をめぐって
  6. 不能者、と呼ばれる前に学習しておきたい奇異なる痴情の掟・・・市川崑『鍵』をめぐって
  7. 廃屋でSM道を突っ走る、生贄たちの狂乱レース・・・小沼勝『生贄夫人』をめぐって
  8. フィルムの分け目を巡る、ちょっとブルーなエロ事まるかじり・・・今村昌平『エロ事師たちより 人類学入門』をめぐって
  9. それでもなお、ナオミは男のロマンたりうるのか?・・・増村保造『痴人の愛』をめぐって
  10. 禁断の三つ巴による、A感覚に溺れて・・・セルジュ・ゲンスブール『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』をめぐって

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