ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』をめぐって
当時、小津安二郎を心の師と考えていたヴェンダースにとっては まさにフィリップ・ヴィンターとアリスの関係は 限定的ではあるが運命共同体、 つまりは擬似家族として、旅を通して絆を深めてゆくことになる。
当時、小津安二郎を心の師と考えていたヴェンダースにとっては まさにフィリップ・ヴィンターとアリスの関係は 限定的ではあるが運命共同体、 つまりは擬似家族として、旅を通して絆を深めてゆくことになる。
ヴェンダースの『都会のアリス』が ボクダノビッチの『ペーパームーン』にあまりに類似しているというので 脚本の修正を余儀なくされたという事実は知っている。 いみじくもどちらも1973年の映画である。 一方がヨーロッパ、一方がアメリカという違いはある。
なんといっていいのか、こんな映画があるのだという思い。 それも全く意識していなかったイランからの贈り物。 イランという国が急に身近になった。 キアロスタミはそれ以後、巨匠の風格を醸し 我が国でもそのスタイルに魅せられ、多くの人に支持された監督である。 残念ながら、3年前の2016年にすでに他界しているが その残された作品は今尚みずみずしい輝きに満ちている。 キアロスタミでなければ撮れない映画ばかりが 燦然と残されている。
こどもはたから。こどもはちから。羽ばたけわんぱくこどもどもの詩 原題は『L’ ARGENT DE POCHE(おこづかい)』なのに、なぜか邦題が『トリュフォーの思春期』・・・このいかにも、な興行の経緯が気には...
伊藤智生によるインデペンデント映画『ゴンドラ』。 三十年越しのポエティックランドスケープ、 この奇跡のような映画をささえているのは、 そんな響きに漂うみずみずしい感性といえようか。 すれていない俳優たちによる、まっすぐながら、 静かで芯の強い演技がじんわりと心を掴んで離さない。
1973年製作スペイン映画『ミツバチのささやき』には 自分がこれまで見てきた映画の中でも特別な思いがある。 というのも、この映画を見てからというもの、 そのアナ・トレントその眼差しが 今だ心に住み着いて離れないからだ。
もとはギュンター・グラスによる戦後ドイツ文学の頂点を極める 傑作小説の映画化である。 映画版では、父親の死、葬儀の際に 「なすべきか、なさざるべきか」この葛藤の末に ふたたび成長への意志を決意しブリキの太鼓をも埋葬し、 二十一までの実にいびつな“少年期”の歩みに終わりを告げる格好で終わる。 個人的には成長を宣言した後の十年の物語を含め さらに続きを見たいところだったが、 ここまでの波乱万丈の人生だけでも 十分に魂を揺すぶられる思いがした。
ここにはゲンスブールの屈折した美学が色濃く支配している。 つまり、ジュテーム(愛している)に対するモワノンプリュ(俺はちがう) という、なんとも逆説的な愛こそが、この禁断の三角関係に割って入るのだ。 いうなれば、波のように押し寄せる詩的な刺激である。 これこそがゲンスブール流アイロニー、ダンディズムである。
それにしても、安田道代があられもなく、 被写体となってさらしたヌードのカットが、スタイリッシュに並べられ、 あたかもグラビアの一枚を飾ってしかるべきものが、 スクリーンを占拠するモダンさで、かくも大胆に痴情の小道具として晒されると、 小説の醸し出すエロティシズムは、逆にどこか薄らいでしまって、 女のしたたかさ、男の哀れみだけを扇情的に浮かび上がってくるのである。
ちなみに主人公スブやんとは酢豚の略で、 原作では「豚のように肥ってはいても、 どこやらははかなく悲しげな風情に由来するあだ名であった」 と記されているから、とすれば、小沢昭一ではなく、 当時なら、フランキー堺あたりが適任だったのでは、とは思うけれど、 このすすけたような小沢昭一の哀愁は、どことなくはかなくも十分に熱演であった。 ちょっとした性的倒錯を抱えた喜劇的中年エロ男を演じさせると、 この俳優は天下一品であると思う。