映画・俳優

『めし』1951 成瀬巳喜男 東映映画・俳優

原節子スタイル「めし」の場合

東京の実家に舞い戻った原節子を訪ねてくる上原謙と ふとしたきっかけで仲直りをし、 再び大阪へ帰阪する車中のシーンだ。 三千代は初之輔に書いた手紙を結局窓から破り捨てる。 その横で、夫はまた以前のような姿で疲れ惚けて眠っているが、 妻はその時すでに、覚悟を決めて、生活そのものを受け入れるだけである。 不本意ではあるが、それはそれで、女の幸せとは 所詮そんなものだという諦めの境地が、 この大女優のくたびれ顔に 一筋の光を照らすなんとも感慨深いシーンなのである。

『生きる』1952年 黒澤明 東宝映画・俳優

志村喬スタイル「生きる」の場合

なんといっても雪の中ブランコにのっての、「ゴンドラの唄」のシーン ぐっとくるはずだけど、 むしろ、今回はずっと微笑ましく観れた。 でも、いいんですよ、たらこくちびるの志村喬は。 決して上手とか、うなるとかっていう演技じゃないんですよ、 でも、なんかほわんと伝わってくるんです。 その人間の味というのか、演技を超えた何かが。 志村喬といえば、七人の侍の「勘兵衛」もいいんですが やっぱり「生きる」にはかないません。

呪いの館 血を吸う眼 1971 山本 迪夫映画・俳優

岸田森スタイル『血を吸う』シリーズの場合

岸田森という俳優を覚えているだろうか? 実相寺昭雄監督による円谷プロの空想特撮シリーズをはじめ、 岡本喜八作品などで知られる 知る人ぞ知る、“怪優”と呼ばれるにふさわしい、 昭和を代表する個性的な俳優のひとりである。 ご多分に漏れず、そんな岸田森が大好きだった。 従姉にあの岸田今日子、元妻が樹木希林・・・ そういうと、その個性の輪郭が少しは縁どられるかもしれない。

映画・俳優

森雅之スタイル

森雅之は昭和の俳優のなかでも どちらかといえば玄人からの評価の高い俳優であった。 溝口健二『雨月物語』のワンシーンで 遠く、行商に出ていた主が家にもどってきて 落ち武者にとっくに命を奪われてしまっている妻が 幽霊として主を迎えるシーンがある。 クライマックスと言っていいシーンである。 そのシーンの撮影が終わったとき、 俳優陣、スタッフはぐったりしていたという。

山椒大夫 1951 大映 溝口健二映画・俳優

進藤英太郎スタイル『山椒大夫』の場合

画面における迫力、人間味。 悪というか、邪念というか 人間としての業の奥行きをこれほどまでに 凄みを持って滲ませる俳優進藤英太郎は素晴らしい。 山椒大夫はちょっと誇張の域を出ないが 守銭奴、あるいは吝嗇な人間、 はたまた助平爺や物分かりの悪い頑固おやじなど 完全なる悪、ではない小市≈民的な悪の権現として この人ほど似つかわしい役者を知らない。 それは名匠溝口作品で証明されている。

鉄砲玉の美学 1973 中島貞夫映画・俳優

渡瀬恒彦スタイル

中島貞夫や深作欣二といった東映アクションものを リードしてきた大御所たちの作品で その存在感を遺憾無く示し「恒さん」として 常に現場で上からも下からも一目置かれていたというこの俳優が そこまでに至った過程を 事細かく調べたわけでも見てきたわけでもないが、 『鉄砲玉の美学』『狂った野獣』、 あるいは『暴走パニック大激走』での熱を帯びた演技を見せられれば 確実に、映画のバイアスを担って アクションの主導を握ってきたのもうなづけよう。

梶芽衣子映画・俳優

梶芽衣子スタイル「さそりシリーズ」の場合

さて、これは実に壮絶な女の世界である。 しかも女囚とくる。 設定が多少前時代的なのはご愛嬌。 実に血なまぐさい女臭が半端なく漂うが、 可憐だの可愛いだのそんな甘っちょろい少女趣味は微塵もない。 あくまでも男顔負けのどす黒い情念と権力志向で爛々としている。 それにしても、まるで漫画のような世界である。 ありえないような世界の連続である。 B級にもほどがある。 だが、これが映画なのだ。

座頭市映画・俳優

勝新スタイル3「座頭市」の場合

座頭市といえば勝新、勝新といえば市。 言わずもがな、専売特許と申しましょうか。 このイメージは勝新亡き後、 いくら月日を経ようとも変わることなどないでしょう。 作家子母沢寛の書いた盲目の剣豪についてのごく短い話から、 このもっとも知られた盲目の侠客キャラクターが ここまで自由にキャラクター化され、一人歩きして 出来上がった26話にわたるシリーズ、 その上、テレビ版は100本を数え、 もはや、市は勝新のもう一つのペルソナとして マニアならずとも、その闇をさすらう旅人として 記憶を一人でに行き来する永遠のアウトローであります。