森雅之スタイル

メイユードリーム、男も惚れる男森雅之になりたい

日本映画黄金期に、森雅之という名優がいた。
大好きな俳優である。
プロ野球ミスタータイガース掛布雅之の名前が
名優森雅之にちなんでなづけられているという事実をしったとき
いささか驚いたものだった。
それは野球熱心だった父親がその息子に名付けるにしては
少し、方向性が違っているような気がしたものだからである。
ましてやミスタータイガースにまで上り詰めた男である。
時代が時代、いまなら俳優やタレントの名前を
好き勝手に拝借してもさほど驚きでないのだが
野球狂と映画好きの相関関係を考えたときに
あくまでちょっとしたズレがあったにすぎない。
だが、それはこちらの錯覚だったかもしれない。

1995年のキネマ旬報では
日本映画オールタイム・ベストテンの「男優部門」で堂々第1位
2014年発表のオールタイム・ベスト日本映画男優・女優でも
日本男優2位というのだから
いまだにその威厳は保たれている証拠だし
当時の世間の認識もいかなるものだったか想像がつく。

もっとも、森雅之は昭和の俳優のなかでも
どちらかといえば玄人からの評価の高い俳優であった。
溝口健二『雨月物語』のワンシーンで
遠く、行商に出ていた主が家にもどってきて
落ち武者にとっくに命を奪われてしまっている妻が
幽霊として主を迎えるシーンがある。
クライマックスと言っていいシーンである。
そのシーンの撮影が終わったとき、
俳優陣、スタッフはぐったりしていたという。
ただでさえ、緊張を強いられる溝口組の現場のクライマックスシーンで
名優が名優としての演技を終えた最高の場面、
森雅之は、その緊張感からの開放として
一息つこうとタバコを一服しようとした。
だが、肝心の火がない。
するとそこで、すっと手が伸びる。
だれでもない、監督溝口健二がホストになった瞬間である。
いとも満足げに、名優の演技に対し
感服の意を表明したのだという。
新藤兼人の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』のなかで
その妻を演じた田中絹代女史がそう告白している。
「その時の先生の満足げな顔ったらなかったですね」
そう言い放つ。妥協を許さず、ことさら俳優に厳格な溝口が
そうした行動にでるなどということはまずないことなのだと
関係者はみな口を揃える。
裏を返せば、そんな厳しい人間を
そこまで満足させうる俳優こそが森雅之であった。

同じようなことを高峰秀子もいっている。
他者に厳しい女優をして
「森さんって方は一言も喋らなくても、そこに居る人でした」
そういわしめるのだから、素人がケチをつける隙などあるわけがない。

名優への礼賛話はここまでにしよう。
最初に見た森雅之の映画はというと
あれは確か成瀬巳喜男の『女が階段を上がるとき』で
なんと煮え切らない男なんだろうと思った。
続いて見た『浮雲』の富岡などは
まさに女の敵、というか、ここまでクズグズの男に
どうして女たちは付いてゆくのか、とさえ思ったが
今思うとやはり森雅之のあの演技があってこそ
初めて後世に轟く名作になっていることがよくわかる。
「森さんの役が他の俳優だったら、あんな名作にはなってない」
とはヒロイン高峰談である。
要するに、それほどまでのグズな男でも
女にとってかけがえのない魅力を持った
相反する男を見事に体現しているということなのだろう。
やはり、自分の好みはなんといっても成瀬作品にただよう、
ありとあらゆる狡さをふくめた男の哀れみ、弱さに
これほどまでに実感させられたという役者なのだ。

そのほか、黒澤作品での『白痴』や『羅生門』
『悪い奴ほど良く眠る』
あるいは吉村公三郎『安城系の舞踏会』
先の溝口作品でもその名演は変わりなく続く。
とりわけ、文学作品の映画化において
この人ほどその作品にうまく馴染みうる俳優はいない気がするほどだ。
監督、スタッフからの信頼もうなづける。

ところで、『白痴』における亀田ほど
自分を悩ませた役はない。
文字通り“白痴”というのだから、
確かにその通りの役を演じてはいるが、
この名優をして、ケチをつけるまでもないのだが、
作品そのものがなじめなかったのか、
はたまた役柄がなじめなかったか、
いまのところ、はっきり断じ得ないもどかしさがある。
どうにもこうにも不思議で特別な作品なのである。
これはこれで、いずれ再見してじっくり検証してみたい。

そんな森雅之は言わずと知れた小説家有島武郎の長男であり、
高校生のときから舞台俳優を目指していた、
いわば生粋の俳優である。
京都大学文学部哲学科中退後、日本映画黄金期に
知性派として君臨し続けたその威厳は
時代を経てもなんら変わることはない。
そんな森雅之を現代のものでみてみたいと思った。
残念ながら、そんな名優を使いこなせる監督が
今、この日本映画界にいるのだろうか?
今なら、さしづめ役所広司あたりのポジションに
位置するのかもしれないが、
いや、そんな単純なたとえは双方に失礼な話であろう。

そんな非の打ち所のない俳優森雅之だが
一つだけ気乗りがしないのは、あの声である。
ぞっとしないのである。
声だけは決して2枚目ではなかった。
むしろ、ちょっと三枚目の声の質をしていたと自分は思う。
何も語らなくても絵になり、
威厳をしめした名優なら、別に声など不要なのかもしれない。
そんなマイナスを差し引いても、
もし俳優になれるなら、こんな俳優になりたい。
男も惚れる男、森雅之になりたいと思う。
それぐらい、渋いのだ。

2件のコメント

夏目漱石の「こころ」この日本文学の最高峰の主人公が敬愛する「先生」を映像化…。まさかそれが実現していたとは…。それを演じた名優が実在した。「森雅之」という名優。小説の文学性の中にあるインテリジェンスとエロチシズム。
実は現代…いとも簡単にBLとひとくくりにしている…その密やかな世界観を、知的に、哲学的にそして官能的に…「森雅之」以上に体現出来る俳優は、未だ存在しない。夏目漱石の世界観を、誰も表現出来ないから。

コメントありがとうございます。

夏目漱石の「こころ」は市川崑ですね。
「こころ」のような文芸大作の映画化は難しいものですが
森雅之というひとは、文芸ものに大切な品格を持ち合わせている稀有な俳優でした。

おそらくは女性の方がその魅力や存在感の大きさが
よりわかる俳優さんだと思いますね。

森雅之出演作品を再発見していきたいです。

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