ビリー・ワイルダー『アパートの鍵貸します』をめぐって
好きなクリスマス映画を10本あげてみな、 ってなことをとっさに言われたとして、 『スモーク』に『戦メリ』に、あとなんだっけか? なんて言っているぐらいだから、 そもそもがどうしようもないんだけれど、 で、よく考えてみれば、こいつもクリスマス映画って言えるのかな、 そう思って浮かんだのが『アパートの鍵貸します』
好きなクリスマス映画を10本あげてみな、 ってなことをとっさに言われたとして、 『スモーク』に『戦メリ』に、あとなんだっけか? なんて言っているぐらいだから、 そもそもがどうしようもないんだけれど、 で、よく考えてみれば、こいつもクリスマス映画って言えるのかな、 そう思って浮かんだのが『アパートの鍵貸します』
その名もずばり『スモーク』って映画は、 ニューヨークでたばこ屋を営むひとりの男をめぐる物語。 ポール・オースターの短編 『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』がまずあって、 そこから映画用にオリジナルでオースターが書き下ろした脚本を ウェイン・ワンが映像化した珠玉の映画だ。 日本では90年代にミニシアターで上映され、 多くの人々の心をわしづかみにしたっていう、 とってもハートフルなストーリー。 誰の身にもついてまわりそうな、 それでいてひとつひとつが実に誠実で、 つい心にひっかかってしまう話で構成されている。
大島渚の、微塵もクリスマスらしさを感じさせない問題作 『戦場のメリークリスマス』を、映画館で観たのは随分と昔の話で、 いま頭に残っている内容の方はというと、 こころもとなく曖昧なところだが、 なんとなく、大島渚らしくない映画だったような気がしている。
日本映画史をざっとみわたして見て、 もっとも著名、それでいて、 日本男児たる威厳と尊厳に重ねて チャーミングさをも持ち合わせた絵になる俳優、 となると、これはもう間髪なく、世界のミフネこと、 三船敏郎の名をあげるしかないだろう。 ミフネを語らずして、日本映画は語れまい。
ラストシーンは驚くほど能天気な執行猶予付きのカップルが 颯爽と自転車で楽しげに並走して終わる。 この無常観は、風呂場でいとしげに死体を清めた 室田日出男の哀しさとは真逆のものである。 快楽と無軌道は唐突なことで日常を揺るがすものだが、 といって、誰もがそこで立ち止まることはない。 川の流れのように続いてゆくのだ。 やるせない気だるさだけがそこにある。 そうした空気が全身にまといついて離れない。 ちょっとした衝撃を受けた。
その芹明香演じる十九ピチピチの若く蓮っ葉な娼婦が、 日夜たちんぼうをしながら、男を漁り渡り歩くわけだが、 ギラギラ夏の太陽が照りつける大阪のドヤ街の片隅で 「うちなぁ何か逆らいたいんや」 そう呟くオープニングシーンのふてぶてしくも、 たくましさと気だるさとともに、思わず視線に緊張が走る。 けれども一時間強のドラマを観終わった後には そんな彼女が実に愛おしくなってくるのだ。
市原悦子というと一連の「家政婦を見た」で つとに名前が通っているのだが、 長谷川和彦『青春の殺人者』で見せたあの狂気の母親像をはじめ、 独特の存在感をもつ女優として この映画を通してもっと評価されるべき姿を 純粋に突きつけられた気がしている。 同時に、そんな女優がこの映画を後に この世から去ってしまった現実に一抹の寂しさが募る。
確か、「傷天」のプロデューサーだった清水欣也は ショーケンにジェームス・ディーン像を重ね合わせてみていたけれど、 この『青春の殺人者』を見れば それはむしろ水谷豊の方だったのかもしれない そう思わせるものがここにはある。 現に、長谷川和彦はその『理由なき反抗』のジェームス・ディーンを 当時の水谷豊に託したかったのだ。 そういって『傷天』の乾亨が抜擢された青春の一頁なのである。
ちなみに今日のタイトル「弔いのあとにさすらいの日々を」は 実際の『傷だらけの天使』の最終回 「 祭りのあとにさすらいの日々を」をもじったものだ。 さすらいの旅に出たオサムは ついに永遠の流浪者になっちまったわけだ。
かくいう自分も高峰秀子、通称デコちゃんの大ファンである。 好きな女優さんは他にたくさんいるけれど、 やはり、ちょっと格が違うのだ。 もの凄い美人でもないが、凛とした気品がある。 そのくせ、銀幕を離れると、意外にも家庭的、庶民的。 そのギャップもまた素敵だ。 いうなれば、飾らない、至ってナチュラルな女性像。 もちろん、会ったこともなければ、なんの繋がりもない。 数々の映画と残されたエッセイなどからの請負、 イメージだけの妄想にすぎない。 いや、妄想なんかじゃなくて、実際そういう人らしい。 それはエッセイなんかを読めばよくわかる。