映画・俳優

『グロリア』 1980 ジョン・カサベテス映画・俳優

ジーナ・ローランズスタイル『グロリア』の場合

カサヴェテスの『グロリア』っちゅうんを ひさびさに観直してみたろ、ちゅうことでね。 うむ、やぱりジーナ・ローランズいうんはかっちょええ女やなあ。 これぞ、姐御のなかの姐御、 毅然とワルに立ち向かうアメリカ版ゴッド姐ちゃんやん。 ま、元がワルの姐御なんですけど、 あるとき、親友の夫がマフィアの情報垂れ流したとかで、 一家丸ごと惨殺されるきっつい運命で、 この子をどうかよろしく、ってなふりで、 ちいこい坊やフィルくんを抱え込むことになりよるねん。

Falstaff 1966 Orson Welles映画・俳優

オーソン・ウェルズスタイル『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』の場合

酒に女に耽溺する太っちょの不世出の大ボラ吹き。 狡猾かつ豪快な男、 それまで散々放蕩の限りを尽くしてきた 老いたる騎士を自ら演じている。 まさに、シェイクスピア劇の名物脇役は この人しかいないという感じの、はまり役である。 しかも愛嬌たっぷり、実に可愛いのだ。

ELLE ポール・バーホーベン2016映画・俳優

イザベル・ユペールスタイル『エル』の場合

それにしても、奔放すぎる、 ちょっと変という声も理解できないわけではない。 ミシェルのような女性の行動を理解するのは簡単ではない。 また仮にこうした女性がいたとしても、 日常を生きてゆくのは別の意味で 大変なことなんじゃないかと思わせるほど、 常識からかけ離れてはいる。 まさに最強の鉄の女像がここにある。

映画・俳優

ジュリエッタ・マシーナスタイル『カビリアの夜』の場合

バカな子ほど可愛いと言うが、 それは女にも当てはまる。そんな話をしよう。 所持金欲しさに、のっけから恋人だと思い込んでいた男に裏切られ、 いきなり川に突き落とされる散々なカビリアが 子供達に助けてもらった恩すらも返さず、 とにかくどうして自分はこんなに不幸なのかとプンスカプン。 その人生を目一杯呪いながら、 親友や神や聖母にまで悪態をつく始末。 言うなれば哀れな女であり、 このイタイ女の物語がこのフェリーニの『カビリアの夜』の骨子である。

『十九歳の地図』1979 柳町光男文学・作家・本

中上健次『十九歳の地図』をめぐって

一方、それは柳町光男によって映画化されているが こちらのほうは原作のもつ青年のやるせなさ、 虚無感がうまく描かれているように思う。 主人公の本間雄二もいいけれど、 蟹江敬三が実にいい味をだしていた。 「かさぶたのマリア」が泣けてくる。 ダイレクトシネマのような手持ちカメラが、 中上文学のエッセンスをつかんでいると思う。 きれいに収まりきった澄まし顔の映像よりもすがすがしかった。

SteppenWolf 1974 Fred haines文学・作家・本

フレッド・ヘインズ『荒野の狼』をめぐって

『荒野の狼』は現代文明に対する皮肉であり、 その洞察力はハリー・ハラーを通じてこの物語を支配し、 他の作品以上に、色濃く反映されているように思われる。 だが、フレッド・ヘインズのよるこの映画化は、 単に文学からの映画化というのでもなく、 また、精神的世界を映像化すると言ったものではなく 実験的でありながらも、どこかユーモアや諧謔精神のようなものをうまく取り込んで、 ヘッセの世界観をうまく抽出した映像化に成功している。

Sans toit ni loi 1985 Agnes Varda映画・俳優

アニエス・ヴァルダ『冬の旅』をめぐって

アニエス・ヴァルダの『冬の旅』 (原題は「屋根もなく、法もなく」で、 最初の邦題も、いつしか『さすらう女』へと変更されている。) そうした現実を決して美化することなく ひどく厳しい現実をさらけ出す。 旅とさすらいを同じ目線で語って良いものか? そうした矛盾が暴きだされはするが、その主張はあまりに無情である。 18歳の少女が、そのさすらいの果てに命尽きる映画である。 女路上生活者として生きた数日間、 出会うさまざまな人間を通し回想しながら 彼女の人間像に触れようとする。

田園に死す 1974 寺山修司映画・俳優

寺山修司『田園に死す』をめぐって

田園の真ん中で、 少年時代の自分と今の自分が向き合って将棋を指している。 なんともシュールな光景である。 寺山修司の自伝的映画『田園に死す』の ここからがいよいよクライマックスシーンである。 これほど現実離れした光景があるものだろうか? まさに夢か幻想としか言いようのない世界である。 ところが、なぜだかグッと迫りくるものがある。 なぜだろう?