ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.31

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.31
ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.31

ことばのばぢから

どんどん秋が深まってきた。
素敵だ。
おとなしく読書の秋、といきたいところだが、
状況がなかなかそうは許さない。
ここでの記事は、文化的なものにからめた個人の思いを発信している。
とはいえ、このところ、世界を見渡しても、
ちょっと気の狂った事態が横行していて、心穏やかではない。
(オーストラリアの狂気など、ナチの悲劇を彷彿とさせる)

わずかに期待していた先の選挙には失望しか残らなかったが、
政府は、例の感染予防のためと銘打って接種ばかりを煽り、
あげくに、パスポートなるものによって
国民にあからさまに規制しようと躍起になっている。
ジョージ・オーウェルの『1984』で読んだ世界観を
これみよがしに見せられているかのような
そんな文字通りディストピアが、現実化されていこうとしているのをみて
事実はフィクション以上にリアルな様相を帯びてきたことに
ひたすら危機感しか覚えない。
その上、かくも情報が操作され、
国民にはなかなかその事実が届かないだなんてことが
今、この社会で平然と横行しているのだ。
一体誰がどのような意図で・・・
いろいろ知れば知るほど恐ろしい。

それに抗おうったって、自分だけの力ではあまりに微力であり
世界を一気に変えようと叫んだところで、物事はそう単純ではない。
団結しようも、隣人たちはほぼ無力化されてしまっている。
いまだ変わらぬ一億総マスク信者たちの光景は、その象徴にさえ映る。
例の作り出された感染者とやらは、日に日に数を減らしているにもかかわらず、
世論はひたすらゼロコロナへと突き進み、
マスメディアは相変わらず、そのことを
馬鹿の一つ覚えみたいに煽動の道具として連呼している。
専門家と称するものたちは、一様に、現実を検証すらできていない。
もはや良心を失った自称専門家にしか見えない連中に
いまさら何を望むのか?
それでも体制が刷新されるでもなく、人々が飼いならされてゆく。

いったい、いつになればこの騒動は終わるのか?
誰が裏でこれを牛耳っているのか、いい加減情報を共有せねばならない。
正しいものたちはすでに気づき始めている。
だがどうやら、冷静になればなるほど
この洗脳はちょっとやそっとで解けぬものらしいことがわかってくる。
そうして、数少ない目覚めたものたちが警鐘を鳴らしたくとも、
大衆が権力に飼いならされてしまえば、むしろこちら側が
陰謀論者とのレッテルを貼られてしまいそうになる。
完全なる世界の分断化の前に、なすすべはないのか?

いったい日本の未来はどうるなるのか?
この先のドラマに、何が用意されているというのだろうか?
想像だけが勝手に膨らんでゆく。
どうせ膨らますなら、楽しく、明るい希望に満ちたものを描きたい。
しかし、あまりにも不条理な波がいま、すべてを飲みこもうとしている。
われわれは無力な哀れな子羊たち、というわけか。
いや、ぼくは決してあきらめたりはしない。
独裁者たちに自由を奪われ、卑しがられる日々なんてゴメンだ。
堂々とNOを突きつけたい。
マスク、ワクチン、パスポート、そんなものは不要だ。
夢みるのは、ディストピアなんかじゃない。
想像力なきところに真の理想郷、ユートピアは生まれない。
けして、屈せぬ不屈の美しい魂を宿しているものたちを募って
せめてものの抵抗で、地上の楽園を築きたい。

そのためにはまず言葉の力を借りよう。
言霊というやつだ。
同志たちが心から繋がれるために。
そう、いまこそ、言葉の力の復権だ。
それにはもっともふさわしい形式、
それが詩(ポエジー)というものなのだ。

詩は言語でありながら、絶えず魂という肉体をもっている。
意思をもち、世界を変えることさえできる。
それは映像のなかにも、音楽のなかにも入り込んでいる。
むろん、生活、人生、人間のなかにある。
文学者や作家はもとより、真の詩人たちは言葉でそのことを伝えてきた。
そうした言葉の力に今一度、寄り添ってみたいと思うのだ。
僕の好きな文学者たちは、多かれ少なかれポエジーに貫かれた
地上の星たちなのだ。

1984(LIVE):David Bowie

ボウイは目覚めたアーティストだった。
その思いは、彼が残した足跡の中にしっかり刻まれている。
傑作揃いの70年代Bowieのアルバムのなかで
この『ダイアモンドの犬』が好きになったのは、
比較的あとのほうだが、今となってはかなり大好きなアルバムになってしまった。
このアルバムは、ジギーのようなどこか異星人から、
まさに「地球に落ちてきた男」としての苦悩を色濃くにじませながら、
非常に高度な文学的コンセプトアルバムに仕上げられている。
当時、ジョージ・オーウェルの『1984』の世界観に魅せられたボウイが、
そのコンセプトをミュージカルに仕立てようとしたが、
オーウェル夫人の許可が下りずに、断念したのだという。

ボウイのオリジナルは、自らが半人半犬の姿となって、
同じく21世紀のディストピア映画、
フリッツ・ラングの『メトロポリス』のイメージを取り込みながら、
オーウェルの描いた退廃的なディストピア上塗りし描いた話題作となった。
サウンドの方も、それまでのロック路線から
プラスティック・ソウルへと移行し始めたころで、
歌詞ひとつとっても、バロウズのカットアップが多用されていて、
新たな変化へ移行してゆく実験が刻印されている。
このビデオはアメリカのテレビタレント兼コメディアンである
ディック・キャヴェットのTVショーに出演したときの演奏で、
まるで死にとりつかれたかのようなやつれた形相で登場するが
まさにドラッグ臭漂う人工的に作り出された、妖しい空気が支配している。
最高のフィクション空間の住人としてふるまいいつつ、
どこか孤高の魂をむき出しにさらしているボウイがいる。

特集:リテラチュールブギニスト、余白に書く

  1. 余白にかくかく云々、夢の遍歴は卵形詩人を巡る旅のごときもの・・・瀧口修造のこと
  2. 希望の始まりはいつだって狂気のポエジーを懐胎する・・・アンドレ・ブルトンのこと
  3. 文体くの一、ウリポ言葉に痒ぃ〜言葉・・・レーモン・クノーのこと1
  4. ボクは苦悩するクノーを支持するだろう・・・レーモン・クノーのこと2
  5. フランツとお話しましょう。それって可、それとも不可?・・・フランツ・カフカのこと
  6. ココアとお茶目と足穂の話・・・稲垣足穂のこと
  7. 魂を貫通す、世にも純粋なるモンスターペアレンツストーリー・・・岡本かのこのこと
  8. 他人の不幸は蜜の味・・・林芙美子のこと
  9. だざい文体・・・太宰治のこと
  10. 心のチャカに背を向け釈迦の背を追う、あの頃我が師シッダールタよ・・・ヘルマン・ヘッセのこと

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