『前略おふくろ様』をめぐって

前略おふくろ様

あの頃、前略少年

前略 少年だった君へ

40年前のあなたは少年でした。
何も知らず
バカで無鉄砲で、
でもシャイで
勇気もなく、
人に誇れるものもなく
でも、ぐれず、腐らず、
頑張って生きていましたよね?
今も元気でやってますか?

あれから社会はすっかり変わりました。
町も、人も・・・

でも、君は、
君だけは変わっていない気がして、
ふと思い出してみたのです。

それから時をへて今がある。

昔は良かった…..
今の若い者は…..

日頃それだけは口にしないでおこうと気をつけてはいるが
正直なところ、昭和が懐かしくなることが最近は増えている。
あの時代の空気にはどこか素朴でほのぼのとした空気があったものだ。
知らない人間にいくら言っても始まらないし、
時は戻ってこないものだから
結局は胸にしまいこむことになるのだけれど。

そんな時、今から40年も昔のドラマを見ると、やはりほっこりする。
見始めると、これが飽きがこない。ああいい。いいたらいいっ。
そんなつぶやきの元に
幸せな気分にありついている自分がいる。
だから誰かに喋りたくてたまらない気分なんだけど、
残念ながら話せる相手がいないんだなあ。
ならってんで、せめてもの思いで書き記しておこうと思う。

母親を大事にする田舎出のナイーブな板前の話である。
この『前略おふくろ様』が、本当にそれがどう面白くって、
一体何に感動するのかということを、
いちいち言葉にするもどかしい思いよりも、
百聞は一見に如かず、見てよ、
見りゃわかるからと言って
すました方がいいに決まっている。
それでも、何んでもいいから書いておきたいんだよな。
そこにこのドラマの凄さがある。

子供が見たって素直に理解できるところもあるけど、
肝心のところは、決して子供の感性じゃついていけないところがある。
人生の重みに溢れている。
男女の機微、親と子の距離感とか、雑多に織りなす人間関係を、
ちゃんと紐解くにはそれなりの経験が必要だ。
だけど脚本は巧妙に描かれており、
それでいてわかりやすく軽妙なところがいい。
どんなに深刻に見えても、なぜか滑稽に描かれており、
さしずめトラジックコメディというやつなのかな。
これはなかなかできるこっちゃない芸当だよ。
後々残るあじわい深いセリフも多い。
それぞれの立場の登場人物たちが発する言葉の魅力。
今見ても全然色あせてはいない名作ドラマだなあって。

まあ当時の世評のことまではわからないけど、
当時自分は10歳かそこらの時だったろうか、
わかるはずがないんだけれど、
とにかくテレビでドラマが見たかった。
が、リアルタイムで見れなかったのは、
主権を握っていた父親のせいである。
父はドラマなんかに興味を示すことはまずなかった。
プロレスや野球が中心だった。
ドラマなんぞ甘ったるい、
とは昭和の頑固おやじの常套句だった。
このドラマで中心になる、八千草薫が好きだと言っていたくせに、
料亭の女将さんをやっていると言うのに、
見向きもしなかった。
嗚呼、残念無念なことだ、
同時代に生きているということを拒否するわけだからね。

だから自分はリアルタイムで見れなかったけれど、
そのタイトルだけはしっかり記憶に残っている。
『前略おふくろ様』がショーケンが主役のドラマなのは知っていた。
舞台は深川の料亭、ショーケンは板前さん見習いという設定で、
おふくろ様へのお手紙を読むという、
自らのナレーションで物語が進んで行く。
おふくろ様はなんたってあの絹代様だ。
溝口健二が惚れた、日本を代表する大のつく女優さんだ。
それがテレビドラマに顔を出す、
それだけでどえらいことだ。
途中役どころでも死んじゃうけど、
実際に最終回を待たずになくなっているというのも、
因果なものを感じる。

脚本はのちに『北の国から』で
決定的な地位を確立することになる倉本聰が手がけている。
すべて、後付けで知ったことばかりをかき連ねているわけだけど、
ここで目にする全てが新鮮で同時にひどく懐かしい。
それが今の自分にはしっくりくるというのは、
つまりは、ある程度人生というものを、
人間とは何かというあたりのことを、
実体験として色々味わってきたからなんじゃなかろうかしらん。
単なるノスタルジーでは無いと思う。

このドラマは、まずは何と言ってもショーケンの魅力にあり、
もっとも脂の乗っている頃といって差し支えない。
『傷だらけの天使』で見せた、
ワイルドで蓮っ葉な不良めいた探偵もどきのオサムちゃんも、
確かに素敵ではあったが、そこからまた180度打って変わって、
山形出のシャイで、それでいて誠実な母親思いの板前見習いという役柄には、
それ以上の魅力がにじみ出ていたといっていい。
どことなく、高倉健を意識するかのように、
不器用で朴訥で、でも人の良さがじんわり滲み出している
というサブちゃんというキャラ。
いいんですよ。

そもそもが、なんで北島三郎をもじって
片島三郎になったのかまでは、定かじゃないけど、
素はロックな人だけど、役柄は演歌を地でいく感じだな。
どちらの番組にもプロデューサーとして噛んでいる
清水欣也氏をして、
セクシーさこそがショーケンのイチバンの魅力と言わしめた。
そのセクシーさってのは、
この『前略おふくろ様』のサブちゃんにおいても、
十二分に発揮されていると思う。
色香というのは、何も異性だけにアピールするものではないと、改めて思う。
男が男に惚れる。
あたかも湯けむりのごとく、
静かにしっとりほんわり立ち上る色香。
狭い四畳半にポツリ火鉢だったり、
料理人風情の襟巻きだったり。
さりげなさのなかに、なんだかキラッとひかるものが見え隠れする。
同性だってそんな色香を嗅ぎつけて、
うっとりしてしまうんじゃないかな。

このドラマの面白さは、
なにもショーケンだけのワンマンな魅力で
成り立っているわけではないんだな。
無論サブちゃんあっての『前略おふくろ様』ではあるけれど、
むしろ、そのセクシーたるショーケンのセクシーさ以外に
主役を取り囲む脇役たちの個性の素晴らしさ、
素敵さ、愛らしさ、そしてその濃さ、
全てが不可欠な要素として、
そこに並列にあるということが、
このドラマを語るべきドラマへと押し上げていると思う。

ほとんど出てはこないものの、
そこにいるという存在感を半端なく漂わせ、
このドラマに箔を付けていると言っていい
「明治の機械は強いのよ」と気丈にのたまうおふくろ様、
田中絹代女史には感激する。
あるいは、はとこという遠い親戚筋の設定から、
お兄ちゃんお兄ちゃんと仔犬のようにまとわりつく、
「恐怖の海ちゃん」を地のように演じている桃井かおり、
その代表作とさえ言い切っていいほど、
際立った自由奔放なかおり節に、ハラハラさせられるし、
またそのオヤジとして、たまに画面に現れるときの存在感が、
まるでぬか床の重石のように、
ずしりと重そうな岡野のおじさんを演じるのがあの大滝秀治。

あの独特の間合いにも引き込まれ、
あるいはその周りを彩る鳶の半妻の兄ぃと利夫を演じる、
ピラニア軍団の室田日出男と川谷拓三のコンビ、
二人の乱暴な丁々発止の掛け合いの滑稽さ。
サブちゃんをジコチュウな気分で
一方的に追い回すカスミちゃん演じる坂口良子の愛らしさにも、
思わず微笑んでみたり、
物を言わぬ男としてのそのオーラが眩しい、
花板のヒデさん演じる梅宮辰夫の
当時のなみなみならぬ存在感も実に渋い。

カッコイイとみとれてみたり、
それらが中心にあって、
さらにその周りをめぐる登場人物たちひとりひとりに、
丁寧に与えられた役どころとセリフの数々に引き込まれて
ひとり感激しているのであります。
そういう意味では紛れもなく
倉本聰の最高傑作と言っていいのかもしれない。
少なくとも『北の国から』よりも好きだ、自分は。

おそらく、当時、このドラマを見た若者たちは、
俳優に憧れたか、板前に憧れたか、
はたまた脚本家に憧れたか、
きっとそうしたドラマの息吹に
感銘を受けたのではないだろうか。
そんな風な時代の幕開けみたいな空気感がある。
東京という大都会の、その中の下町風情を舞台に、
人間は決して一人で生きてはいけない存在だということを
面白おかしく、時に哀しく、
ホロリとさせる人情の活発な交流が、
70年代という時代の空気を遺憾なくとりこみながら、
40年経ても相も変わらず名作ドラマとして
今もなお脈打つ感動がここにはあるって素敵なことだ。

こじつけかもしれないけれど、
少なからず、縁のあるドラマと感じるのは
まずこのドラマの舞台が深川であるということ。
最初のシリーズの料亭分田上が
立ち退きに合う高速道路というのが
自分がはじめて東京に出てきたときに住んだ、
江東区冬木町、その目と鼻の先を走っていた。

その女将さん北谷栄は、
どことなく祖母を連想させるし、
今の自分がサブちゃんと同じように、
母親を引き取ろうと考えている身の上であり、
おふくろ様である絹代さんは、
どことなく我がおふくろ様を彷彿とさせる女優であるということ。
まあ全ては単なる思い込みだけど、
そう考えるだけでもおのずとドラマに親近感はわく。

音楽もいい。
あの哀愁のメロディは安定のBGMだ。
ショーケンのドラマには不可欠な音。
当時好きなドラマは大概井上尭之が
手がけているのは偶然ではないんだな。

ラストシーンはいたく感動的で、
若き日の自分たちが過ごした青春が
こんな風にあったことを忘れないでいたいと、
年老いてやっかいもの扱いされても
こんな素敵な時代ががあったのだと、
まさに青春そのものをつめこんだ
かつての恋人カスミちゃんの手紙のナレーションとともに
サブちゃんが慣れした深川の町を離れ、
いよいよ仙台の店へと旅立っていくシーンで終わるのだけれど、
そこにショーケンが歌う主題歌が被ってきて
クライマックスを迎えるのだが、
そこにさりげなくまた決定的に盛り上げるのは、
このドラマに関わった全ての人間のエンドロールが
肩書や役名もなく、
ただ五十音順でクレジットで流れるという
テレビドラマという枠を超えたそのスケールが
展開されていくからなのよね。

「ドラマに携わっているものはみな僚友、肩書なんぞ関係ない」
という倉本聰の強い意向が反映されたという。
この素敵な心遣いが
ドラマの根底に流れているんだと思うと、
このドラマがなぜ素敵なのかが想像つくと思う。
そこをどうして素通りできようか。

人と人を結んでいる不確かなものを
確かにしていくというのが
このドラマの実態だとするならば、
その正体こそが紛れもなくそこにあるのだと
実感するからであり、
『前略おふくろ様』は、
時代と俳優とスタッフによって生み出された
今絶滅危惧種のようなドラマであることはまちがいなく、
その昔、こんないいドラマがあったことを
僕は嬉しく思うし、
自分にも、また自分のおふくろさんにも
輝くような青春があったということを
今一度思い返すのであります。

ありがとう、『前略おふくろ様』。
ありがとう、70年代。

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