永遠のオラーアニメを愛したい

妖怪人間ベム 1968版

鬼太郎を始めとする妖怪好きは認めるところだが
ホラーとなるとちょっと身構えてしまうんだな。
怖いものみたさはあっても
やはり、妖怪ならどこかしら、
親しみというか、愛嬌がある分安心感がある気がする、
もっとも水木先生の薫陶なのかもしれないけれど、
いわば、そこがホラーとの境目、
いわゆる魔境とでもいうのかな。

でも『妖怪人間ベム』だけは
未だに特別なアニメとして記憶に刻印されている。
設定がどこまでも無国籍で、子供向けというには、
内容も重く暗い話ばかりだったから、余計に怖かった。
当時の妖怪アニメの中でも異色中の異色
そう言っていいだろう。

そもそも妖怪人間とは、
どちら側に属するものなのか。
人間側か妖怪側か
それはその魔境を行き来できる存在だから
どっちだって同じなんだけれども。

妖怪である彼らは、
人間でもなければ、動物でもない、
言うなれば、ある特殊な能力を
生まれながらに兼ね備えているわけだけど、
それが、人間を驚かせるためにある能力ではなく、
もちろんいたずらに見せるわけでもない。
この世の人間の心の奥に潜んでいる、
悪はむろん、弱さや恨み辛み嫉みに対して
生じる隙間を狙って入りこむ、
悪霊や悪魔、化け物たちと果敢に戦って
人間たちの安らぎを取り戻すためにだけ発揮される、
つまり、正義のヒーローであるにもかかわらず、
あの容姿ゆえに虐げられ、
尊敬や羨望、愛を勝ち得ず、
闇に隠れて生きなきゃならんのです。

「楽しいな、楽しいな お化けにゃ学校も試験も何にもない」
と歌われる鬼太郎たちに対して
「人に姿をみせられぬ獣のようなこの体 暗い定めを吹き飛ばせ」
と歌われるベムたちとは、雲泥の差があるではないか。
もちろん、アニメの話なんだけどね。

そんな話妖怪人間だが、これが、意外に本質をついてくる。
子供ながらに、恐怖と闘いながらも、
テレビの前に釘付けになっていたものである。
このアニメが、鬼太郎なんかの妖怪ものとは違い
ホラー要素の方が強いのは明らかだが
いくら善を為しても決して人間から認められず
それでも人間を憎まず
少しでも早く人間になりたいと
けなげにそう希求しながら、
最後は、人間の為に妖怪と戦って消失してしまった、
そんな心優しい彼らの動向が、
子供ながらに、ずっと心の片隅に残っているのだ。

そのアニメが誕生50周年を迎えて
新たに『BEM』としてリメイクされた。
これまでもリメイク版・実写ドラマ版と
活発にリメイクされてきたのは知っている。
それだけ人気があるってことは嬉しいけれど
ここまでオリジナルが変化してしまうと
もはや自分の中のベム幻想は崩れ
全く別物になってしまった気がして
とても複雑な思いがしたものだった。

実写版のドラマの時にも最初は同じような感慨を持ったが
実を言うと、あれはあれで、そんなに嫌いではなかった。
まあ、別物としてみれば、そこまで憤るものでもない。
そもそもアニメを実写化すること自体に無理があるわけだが、
それをとやかく言っても始まらない。
妖怪人間の醜さと背負っている業のようなものが
最低限守られていたことで、
ドラマをドラマとして見てみるなら、
さほど抵抗なく入っていけた。

それでもやはり、
最初に見た妖怪人間のイメージからは
そう簡単に自由に解き放たれるまでには至らない。
父権に優れた哲学者のようなベム
唯一の女性性を持ち、時に母性をもかいま見せみせたベラ
そして人懐っこく愛くるしく
一番人間とのふれあいに積極的だったべロ。
これらイメージがあってこそで
やむえず醜い姿に変身してまで悪と戦うべくして
運命づけられていたのがオリジナル版の骨子で
それが、時代に迎合する形でリメイクされて
ワクワクしろというには無理がある。
ネット上の言葉を借りるなら
「人間にならなくても大丈夫そうな見た目」
といわれてもなあ。

まして、闇に隠れて生きる妖怪人間たちが
どうして普通の人みたいに受け入れられる必要性があるのか
という問いに抗えない自分がいる。
これがまったく新たに創造されたストーリーならわかるが、
ベムはベムである。
ベラはベラである。
ベロはベロである。

この場であまり否定的な論議を煽ろうとは思わない。
妖怪人間は誰のものでもないし、
自分が好きだったものは過去の産物だ。
リメイクも、あくまでリメイクに過ぎない。
昨今のテレビ事情からすると、
臭いものに蓋はあたり前で
道徳やら倫理が横行しすぎているから
面白くないという声はよく耳にするが、
もともと三本指だったものが
五本になることでしか表現できないのであれば
初めから御体満足なキャラクターを
考え出せばいいだけの話だと思う。

差別するのはそれを差別表現だと解釈する人間の論理に過ぎない。
当時の表現が適切ではない、
というようなクレジットがよく入るが
セリフを消されたり音声カットされるぐらいないなら
見たいとは思わない。
そんな中途半端な状態で見せられても
興ざめするだけである。
つまり、パラリンピックもオリンピックも、競技に入ってしまえば同じなのだ。
それに似ている。

そんなわけで偏愛ゆえの憤りが
少々露呈してしまったかもしれないが、
自分が好きだった『妖怪人間ベム』に話を戻そう。
設定がどこまでも無国籍だったのは、
当時製作に関わっていた第一企画の作画スタッフが
韓国に派遣されて、いわば逆輸入アニメとして
製作されていたからだという。

また最終回で、ベムベラベロは、妖怪騒ぎに辟易した警察によって
いうなれば焼き打ちを食らう形で終わるのだが、
死んだのか逃げ切れたのか、
結局その後の動向が謎のまま終わったことを思えば
当初の半分に縮小されたという意図からも
当時から呪われたアニメではあったのだろう。

そんな『妖怪人間ベム』の中の話で
印象に残っている話を書こう。
確かあれは「悪魔の化粧」というタイトルだったと思う。
明日に控えた舞台で
悪魔の役を演じることにになっている男が
全然悪魔らしくない大根役者で、
共演者たちからさんざん演技を駄目押しされ
小馬鹿にされているのを悩んでいるところに、ベロと知り合う。
そのベロからしても怖くないのだから
悪魔の役には荷が重いのだろう。
男は悪魔の力を借りてでも憂さを晴らしたいと考える。
その思いを聞いた悪魔がその男に手ほどきをするふりをし
乗り移ってしまうという話である。

いざ舞台が始まると、悪魔を演じる男の迫力が
普段とは問題にならないほどリアルで
共演者たちは一様に驚くが、
本物の悪魔が演じているのだから怖いはずである。
舞台で本気に共演者を殺そうと企む悪魔に
ベムが駆けつけ挑むのだが、
その世界は悪魔の妄想の世界で繰り広げられる。
つまりは心理戦なのである。

悪魔はベムの心を読むから
ベムが次にどう出てくるかが
手に取るようにわかるため
ベムは至極当然苦戦する。
そこでベムは考えを改め
思いとは逆の動きに出て悪魔を撹乱する。
それが功を奏しなんとか悪魔を倒すことができたが、
妄想の世界から這々の体で帰還するベム。
そこでベムがしみじみ言う。
なんとも手強い敵だったと。
その重みがとてもリアルに思えたのだ。

人間の弱さにつけ込むのが得意な悪魔なら
この世は悪魔に簡単に支配されても不思議じゃない。
そんな悪魔に魅入られないためには
心の内を決して悟られてはいけないのだ、
子供ながらにそう思ったが、
自分にはとてもできっこないことだった。
とても深い話だと思った。

全26話ある。
その他にも怖い話はたくさんあったが
ここで語り尽くせるほどはっきり覚えてはいない。
が、今の時代にはないオリジナリティがあった。

やはりこのオープニングがあっての『妖怪人間ベム』である。
おらが心に棲まうホラーアニメならぬ
オラーアニメの傑作を永遠に愛したい。

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