デビルマンというアニメについて

デビルマン 1972 永井豪

三つ子の魂百まで、夕暮れを見ると悪魔の子守唄が聴きたくなってくる

なんだか無性に子供の頃大好きだった漫画を
人知れず観たくなることがある。
幸い、いまはYouTubeなどで安直にみれる良い時代で、
なんならDVDなどに手を伸ばせば
タイムラグは簡単に埋めることが出来る。
あとは感情、感性がついていけるかどうかだけである。
それはじわじわゆさぶってくるようなもの、
ジブリものでもなければ、
スタイリッシュなヒーローものとも違う、もっと素朴なモノでいい。
ベタで心底感情を揺さぶるようなものなら
時代に関係なく、永遠に心に奏でるものがきっとあるはずだ。
何れにせよ、子供にとってアニメや漫画というものは
情操教育には欠かせない、実は大きなファクターだと改めて思うのだ。

そこでまずは『デビルマン』を思い出してみよう。
永井豪原作アニメで、裏切り者の悪魔が
その追っ手を跳ね除け、逆に人間を守るストーリー。
永井豪といえば、ちょっとエッチで
どこか暴力的な描写が印象的な漫画家として知られていたな。
『キューティーハニー』や『ハレンチ学園』と言った
お色気アクションものから
『ゲッターロボ』『マジンガーZ』や『ドロロンえん魔くん』と言った
ロボットもの、妖怪ものまで、
そのスタイルは幅広く、実に多産な昭和を代表する漫画家である。
なかでも『デビルマン』はものすごく心を掴まれた作品として
記憶に焼き付いている。
もっとも、永井豪が特に好きだったわけではないのだ。
『デビルマン』が特別な存在なのだ。

この漫画の構造を考えてみよう。
魔王ゼノンが統治するデーモン族という悪魔の巣窟から
人間界を支配しようと送り込まれる、
いわば悪の刺客がデビルマンである。
デーモン族の中で選ばれたエリートデビルマンは
ヒマラヤで遭難して命を落とした不動明に憑依するところから始まる。
目的は人間社会を悪で染めること。
なのに、なぜか人間以上に人間らしく振舞って
気がつけば悪魔たちを敵に回す裏切り者になっている。
それはミキという女の子に恋をしたからだ。
悪魔が人間になって、人間の女の子に恋をする。
なんともわかりやすくキャッチーな設定だろう。
だから、このヒーローが背負うもの
つまりは自らの使命に背を向けて愛するものを守る、
真逆の感情を育んでいくことにシフトするところに
観客は心を動かされるのだ。

こうした主人公の設定に置いて
始めに強いマイナスの要素から始めることで、
見るものにはそのギャップのインパクトに
感動の導線をすでに埋めこまれてしまうことになる。
もちろん、あまり複雑な構造になると
自ずと乖離が生まれるから
子供向けのアニメである以上はわかりやすさが前提だ。
その点はなんの問題もないだろう。
そこに『デビルマン』が成立する。

もっとも冷静な視点で見ると
やっぱし漫画だよな、と思わざるを得ない描写は多々ある。
デビルキックだのデビルチョップだのと
なんでもかんでもデビルをつけて連呼すればいいってものでもなかろうに、
デビルマンは、まるでデビルこそが商標のように
デビルと名つけた技をこれ見よがしに行使する。
もっとも、哀しいかな、子供にはそれがたまらない。
子どもの時分にはそんなことにいちいち懐疑的になったり
注文をつけたりはしないものだ。

悪魔が乗り移ったにせよ、れっきとしたヒーローの変身譚である。
そこはどうあがいても漫画の世界なのだ。
だがよく見ると、
ゴシックホラーの要素もふんだんに盛り込まれた妖怪譚でもある。
そこが面白いところである。
ただ、永井豪にはどこかユーモアというか
ギャク漫画家出のエッセンスが立ち込めており
そこがなんともチャーミングさを醸し出している。
おもらしばかりしているミキの弟タレちゃん
いかにも滑稽で舐められキャラのアルフォンヌ先生
あるいは落ちこぼれ妖怪ララなど、
ギャグ漫画における三枚目の脇役を配置することで
ホラーとコメディーの境界線を曖昧にして
漫画としての面白さをうまく引き出している作品である。

だが、『デビルマン』が特別なのは
ミキを守ろうとすることで、
人間以上に人間らしい感情を育みながら、
時には、愛すべきキャラクターとして
わかりやすく感情を前面に出して振る舞う姿に魅了されるからなのだ。

そもそも悪魔なら、人間の心など、一瞬にしてお見通しで
その隙をついて、心理的についてくるのはお手のものだろう。
そうした小難しさ、小狡さを持ち合わせていなデビルマンは、
そもそもこの裏切り者を倒そうと送り込まれる悪魔の化身たちが
妖術を駆使しながらも
いわゆる単純明快な悪を背負った使者たちに命を惜しまず立ち向かう。
それをいかに打倒するかに尽きるのだ。

ただし、デビルマンが背負う業は、人間レベルで考えてみても深い。
人間を愛し、ミキを愛するがゆえに
己の存在だけは知られたくないという不文律が
不動明=デビルマンが背負う運命そのものである。
これだけは守らねばならない。
なぜならば、ミキを失いたくないからである。
そこに愛があり、葛藤がある。
つまりは悪魔を捨てた人間の心がある。

最終回で、デーモン族最後の砦、
その名もゴッドという相矛盾する刺客が送り込まれ
不動明はいみじくもデビルマンであることを
ミキの前でバラされてしまう。
しかし、アキラを愛するミキは
そんな悪魔であったデビルマンを人間として認め
文字通り、二人の愛が正義として描かれるという
クライマックスに子供ながらも感動を覚えた記憶が
今なお鮮明に心に刻まれているのだ。

デビルマンのカッコ良さは
かようにも人間臭いところにある。
悪魔にして、人間以上に人間の心を持っているからこそ
我々の童心をも虜にしたのだろう。

残念ながら、自分が好きで記憶しているのは
1972年度版の古いイメージのデビルマンであって
のちに映画化され進化していくニューデビルマンではない。
それらを追って比較を試みたいわけでもないし
そうした進化したデビルマンに思いを重ねたいわけでもない。
ある意味漫画と呼ばれた頃の
あの漫画然としたキャラクターだけが
今尚心を満たしてくれるのだ。
それには別にノスタルジーと呼んでも差し支えない。

最後に、そのアニメのエンディングテーマに触れておこう。

「あれは誰だ、誰だ、誰だ」で始めるオープニングも
アニメソングとして傑出した格好良さがあり大好きなのだが
デビルマンの場合は、やはりこの十田敬三歌うエンディングがたまらない。

人の世に愛がある
人の世に夢がある
この美しいものを守りたいだけ

このフレーズだけでなんだかウルウルきてしまうほどの名曲なのだ。 
ちなみにデビルマンを英語で書くとDEVIL+MAN
単純なことだが、悪魔人間というからくりに、いまさっき気がついた。
アニメは深いのだ。

今日もどこかでデビルマン:十田敬三

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